日記  2005年11月22日(火) に思った 哲学 のこと

区切り

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陰気な話題で申し訳ないが、やはり書いておく。

土曜日、私は初めて告別式に参列した。葬式に立ち会うことは多いが、告別式まで出る機会はまれだ。
葬式と告別式は本来、個別のものである。葬式(葬儀)は、生前にお世話になった方々が集まるもの。告別式は、ごく近しい身内が最後の別れを告げる(荼毘に付す)儀式である。

祖父の場合、葬式らしい葬式はせず、告別式だけ行われた。親族以外の人もいない。お坊さんも、位牌もない。祖父は決して無宗教論者ではなかったが、作法に頓着しない人だった。そう思えば、この飾り気のなさも祖父らしいと言えた。

出棺して小一時間ほど経つと、祖父は白い骨になっていた。
その骨を箸を使い、骨壺に納めていく。ひととおり遺族が拾うと、残りは火葬場の人が手早く、しかし丁寧に納めてくれた。初めて知ったのだが、大切な箇所(喉仏やあご、頭蓋など)は、壷の中で故人の姿を再現するように納めていくのだ。

詰め終わったところで、告別式も終わる。これで、葬儀も済んだ。
遺体は煙となり、故人をしのぶものとして骨壺が遺された
「終わった」という感じだった。

帰りの車の中で、ふと思った。
(葬式は、遺された人のためにあるんだなぁ……)と。

故人のことを忘れることはできないが、区切りはつけなければならない。死者への思いを抱いたまま、ふだんの暮らしをすることはできないからだ。
葬式とは、そうした区切りをつけるためにあると思う
この目で遺骸を見た。この手で骨を拾った。「もしかたら」なんて、絶対ない。終わったのだ。確実に。

死を不浄とし、忌避しながらも、葬儀ではこれを直視させる。
毒も少量であれば薬になるのと同じだ。死に触れる(触れさせる)ことで、死を区切っているのであろう
宗派も作法も越えた先人たちの知恵に敬服した。

死は区切られた。
だから私も、ふだんの暮らしにもどっている。
ふつうに食べて、ふつうに働き、ふつうに笑っている。

祖父の時計は止まったが、私の時計はまだ動いているのだから。

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