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[日記2008年02月17日(日)に思った社会のこと

知魚楽ヲ知ル

知魚楽ヲ知ル

 荘子「秋水」の最後に、このような話がある。

ある日、荘子(そうし)と恵子(けいし)が川のほとりを散歩していた。ふたりで橋を渡っているとき、荘子が言った。
荘子「魚がゆうゆうと泳いでいる。あれが魚の楽しみというものだ」
すると恵子はたちまち反論した。
恵子「きみは魚じゃないのに、どうして魚の気持ちがわかるんだね?」
荘子「きみは私じゃないのに、どうして私が魚の気持ちがわからないとわかるんだね?」

 恵子は理論的な人だったみたいだな。ささいなヒトコトに突っ込む恵子もすごいが、さらりと返す荘子もおもしろい。ふたりの議論はつづく。

恵子「たしかに私はきみじゃないから、きみが魚の気持ちがわかるかどうか、わからない。だけどきみは魚じゃないから、魚の気持ちがわかるはずがない (私の理論はカンペキだ)」
荘子「まぁ、待ちたまえ。最初、きみが私に『どうして魚の気持ちがわかるんだね?』と訊ねたときも、きみは(荘子は魚じゃないから魚の気持ちがわかるはずがないと)わかっていたんだろう。それと同じように、私も橋の上で魚の気持ちがわかったんだよ」

 後半はちょっと難しい。「魚でないものは、魚の気持ちを理解できない」とする恵子の理論は正しいように見えるが、じつは証明できない。「たぶん○×だろう。そう考えた方が納得できる」と恵子が考えたように、荘子も魚の気持ちを想像し、理解したわけだ。

 ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士は、荘子の話を好み、随筆や色紙にしばしば「知魚楽」と書いたそうだ。という話は知っていたけど、私には湯川博士の意図するところがよくわからなかった。それが最近、ちょっとわかってきたような気がするので、まとめておく。

 完全に証明(肯定)できるものしか信じないのが科学(=恵子)だが、完全に否定できないことを排除しない視点(=荘子)がなければ、科学の発展はなかった。
 たとえば宇宙人は存在するだろうか?
 恵子のように頭で考えればノー、荘子のように心で感じればイエス。しかし現状ではイエスもノーも証明できない。真実に近づくためには、頭と心の両方が必要なのだろう。
 現代人はとかく理屈を偏重しがちだ。それでいて、根拠のないオカルトに惑わされたりする。「知魚楽(魚ノ楽シミヲ知ル)」は、思考のバランスを保てと言う博士からのアドバイスかもしれない。

 もちろん博士の心はわからない。
 しかし、「博士の心がわかった」と感じる自分を否定する気もない。

 最後に原文を載せておく。

荘子与恵子游於濠梁之上。
荘子曰「魚出游従容、是魚之楽也。」
恵子曰「子非魚、知魚之楽。」
荘子曰「子非我、安知我不知魚之楽。」
恵子曰「我非子、固不知子矣。子固非魚也。子之不知魚之楽全矣。」
荘子曰「請循其本。子曰女安知魚楽云者、既已知吾知之而問我。我知之濠上也。」

 荘子(秋水篇七章)。
 『濠上問答』、もしくは『知魚楽』として知られる一節である。

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