日記  2008年08月13日(水) に思った 哲学 のこと

マリーの部屋、私の部屋

マリーの部屋、私の部屋

「マリーの部屋」という思考実験がある。

マリーの部屋 (Mary's Room)

マリーは聡明な科学者である。とある事情から、彼女は色のない部屋で勉強していた。白黒の本、白黒の写真、白黒のテレビから世界を学んだ。
マリーは「トマトは赤い」という事実を知っているが、実際に赤い色を見たことはない。マリーは世界に色があることも、それが光の反射であることも、赤い色が人間の心理に与える影響についても熟知している。
そんなマリーが部屋から出て、赤いトマトを見たら、彼女はなにかを学ぶだろうか?
Wikipedia

多くの人は「マリーは新たな発見をするだろう」と予測する。色に関するあらゆる物理的事実を「知っている」ことは、実際に色を「感じる」ことを補完できない。赤いトマトを見たマリーは「わぁ」と感激し、蓄積されていた情報は再構築され、新たな意味と感動をもたらすだろう。

実際に経験することによって得られる個々の質感を、「クオリア(感覚質)」と呼ぶ。ソニーのブランド名ではない。クオリアは、心の哲学で古来から議論されてきたテーマの一つだ。
もしクオリアがあるのなら、知識による理解は限界があることになる。白黒の部屋にいたころのマリーは、色に関する理解は不完全だったのだから。

私はフランスに行ったことはない。しかしフランスの知識はある。最近はネットのおかげで、居ながらにしてフランスの写真を見たり、そこで暮らす人々の日記を読むことができる。Google ストリートビューを使えば、マンホールの図柄まで見える。しかし「フランスの空気を感じる」ことはできないかもしれない。

とはいえ、クオリアがすべてに優先されるわけでもない。付帯する知識がなければ、「ほら、アレの、あんな感じ」といった表現しかできないし、記憶に留めておくことも難しい。表現できず、また当人も思い出せない感覚は、存在しないも同然だ。

逆に、フランスの空気を感じたことはないのに、あたかも感じたことがあるかのような日記は書けるかもしれない。クオリアは直接伝達できないのだから、私にクオリアがあるかどうかは誰にもわからない。小説家は月に行ったことがなくても、人を殺したことがなくても、それっぽい文章を書けるからね。

するとマリーは部屋を出なくても、赤い色を見た「感じ」をそれっぽく表現できるかもしれない。私もマリーと同じ部屋にいて、赤い色を見たことがなかったら、マリーの体験談の真偽をどうやって見分けるだろう? 「マリーは新たな発見をするだろう」という予測も知識に基づいているのだから。

最近、思考実験や心の哲学がおもしろい。

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