日記  2009年07月02日(木) に思った 健康 のこと

「障害」でなければなんなのか

「障害」でなければなんなのか

差別をなくすため、差別的な言葉をなくそうとする運動には賛同しかねる。

「障者」という呼び方は差別的なので、「障者」に変えようとする運動がある。
「碍(がい)」も「害(がい)」も、意味は同じ。ただ「害」という字にはマイナスのイメージがあるから、使うべきではない。そして適切に表現できるよう、「碍」を常用漢字に追加すべきとの要求が高まっているそうだ。

ものすごい手間をかけて、意味も、音も変わらない。しかし、うっかり「障害者」と表記した人は、「差別的!」とそしられるだろう。あるいは過去の出版物も書き換えられるかもしれない。「障がい者」や「しょうがい者」「障礙者」など、読み方が錯綜して、ともすれば「あの人は"アレ"だから」と言われかねない。これが差別の撲滅になるのだろうか?

障害者の「障害」とは、健常者に対して欠けた部分があるという意味だ。テレパシーがなくても、障害者とは呼ばない。テレパシーは健常者にもない能力だから。つまり「障害」とは、基準をどこに据えるかによって決まる概念だ。『トリフィドの日』のように、全世界の人が視力を失えば、視力がある人の方が異常になる。

これを、「欠けているわけじゃない!」「欠けていると考えるのは差別だ!」と主張するなら、「ではなんなのか?」と問いたい。

以前、「障害は個性だ」とする意見があった。
障害がある人は、健常者とは異なる人生を歩み、異なる幸せに至る。能力的な不便はあれども、人間として欠けることはない。それは1つの個性であって、憐れむべきものではないと言うわけだ。
私はこの考え方に感銘を受けた。お酒を飲めない人、女の子にもてない人、音痴な人を、「欠けている」「不能者」と考えるのは傲慢だろう。『ツァラトゥストラはかく語りき』にも同様のエピソードがあった。
そして個性であるなら、恥じることはない。上から目線で本質に気づかぬ人々の方が、むしろ欠けているのだから。

障害は障害じゃない。そう考えても、「害」の字を「碍」に変えようとする運動には違和感を覚える。そもそも障害者の方々が、「障害者と呼ばないでくれ」と訴えているのか? 「害」の字を使うことで、誰が誰を差別しているのか? ありもしない差別意識を掘り返して、正義を行っていると悦に浸っているだけに思える。

かつて「子供」という書き方は差別的だから、「子ども」や「こども」に変えようとする運動があった。いわく、「供」の字は「お供(付属物)」や「供え物(生け贄)」を意味するから不適切だと言うのだが、そんな文化的・歴史的根拠はない。室町時代から使われてきた日本語が、一部の人の思いこみによって矯正されてしまったわけだ。なんだかなーと思う。

こうして日記を書きながら、私はビクビクしている。
「差別反対運動に反対する人は、差別主義者だ!」と批判されなければよいのだが。


■「碍」常用漢字に必要?...障「害」印象悪く、賛否両論
(読売新聞 - 07月02日 14:51)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=886159&media_id=20

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「障害」でなければなんなのか