日記  2011年01月21日(金) に思った 社会 のこと

不快なものに注目してしまう性質

不快なものに注目してしまう性質

 人間には、不快なものに注目してしまう性質があるようだ。

 なんの話かというと、エ○カさまの件。私は彼女のことをぜんぜん知らないが、ニュースを見るに、とてもケシカラン存在らしい。まぁ、「謝罪はうそだった」なんて告白すれば、好かれるはずもない。こんな性格では、遠からず芸能界から放逐されるだろう。
 ところが、彼女の話題はなかなか消えない。離婚しそうだとか、復縁したらしいとか、つねに世間の耳目を集めている。これで映画に出演すれば、「ケシカラン女優がどんな演技をしてるか見てやろう」てな感じで、意外と集客力があるかもしれない。
 とすれば、エ○カさまの傲慢な言動は、じつは有効な売り込みだったことになる。まぁ、計算してやっているとは思えないけどね。

 まぁ、エ○カさまにかぎった話ではない。芸能界やスポーツ界は、その実力以上に人気がモノをいうはずだが、なぜかバッシングされる嫌われ者が大々的に売れることがある。もちろん、バッシングされて消えていく人が大半だが、わずかでも例外があることは、考えてみれば不思議なことだ。

 芸能界などは、マスコミやスポンサーによる特殊な力学が働いているかもしれない。しかし、ユーザーの自由意志で利用できるネット社会でも、似たようなことは起こる。
 たとえば、あからさまに不快な文章を書くブログが、コメントで埋め尽くされることがある。「あなたの考えはまちがっています!」「具体例を出してください!」と、懸命に論破しようとしているが、どこの誰とも知らぬ人に道理を諭して、なんの意味があるんだろう? 不快なら無視すればいいのに

 とはいえ私も、不快なブログにヒトコト言いたくなる衝動はわかる。人間には、不快なものに注目してしまう性質があるのだ。臭いものの匂いを嗅いだり、グロテスクなものをのぞき見したり、悲惨な話を聞きたがり、危険なものに触れたがる……。ストレスを高めてなお、繰り返す。これはもう、習性と言っていい。
 「憎まれっ子、世に憚る」と言うが、問題は憎まれっ子ではなく、そうした存在に注目してしまう世間の性質にある。言い換えるなら、ぶーぶー文句が言える対象(ケシカラン存在)を、私たちが求めているのかもしれない

 てなわけで、不快なニュースを見て、「○×はケシカラン」とか、「こんなニュースを流すマスコミはケシカラン」と文句をいってもはじまらない。イヤなものから目をそらし、心の平穏を保つスキルが必要なんだろうな。

 って、こんな日記をいちいち書いてる私が言えた話でもないが。

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