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[日記2012年08月01日(水)に思った哲学のこと

スポーツは法によって支配されるべきか

スポーツは法によって支配されるべきか

 オリンピック柔道で、ビデオ判定で勝敗がひっくり返る珍事があった。

 ロンドン五輪柔道男子66kg級準々決勝で、3審判は韓国選手に旗をあげたが、ジュリーからの指摘で判定がひっくり返り、海老沼に旗3本の逆転勝利となった。
 ジュリーってなんだ? ジュリー(Jury)は主審、副審以外の「審判委員」のことで、ビデオカメラで試合をチェックしている。誤審を防ぐため、2007年から導入された制度である。ジュリーの指摘によって旗判定が変わったのは初めてだった。

素人にはわからない勝敗

 テレビで見たけど、どっちが勝ったかわからない試合だった。「これが証拠だ」といった映像もない。会場ではブーイングが起こっていたから、わかる人にはわかる内容だったのかもしれない。

 言い換えるなら、柔道は勝ち負けのハッキリしないスポーツだった。そういえば、フィギュアスケートもルールが複雑化して、なにが評価され、なにが減点されるか、素人にはわからなくなったらしい。ぎりぎりの判定を得るため、選手は人間の目をあざむくよう、試合を進めているのかもしれない。

機械>人間 は駄目という視点

 私はスポーツにも、オリンピックにも、国威発揚にも興味がないので、「へぇ」と思うだけだったが、これに異を唱えるコラムが日経新聞を見つけた。筆者は「勝ったからいい、負けたから駄目ではなく、不可解な判定を許してはならない」と言っている。

 筆者が問題視しているのは2点。

  1. 人間よりビデオ判定を優先させるのはおかしい。ビデオ判定が絶対なら、畳の上に主審・副審を配置する意味がない。
  2. 一度下された判定をくつがえしてはならない。試合の流れが崩れるし、選手が動揺してしまう。

 判定をくつがえすのはよくないが、誤審の排除はそれに優先するだろう。誤審をそのままにした方が、選手が納得できると言うのだろうか?
 スポーツをやってなくても、選手にとってオリンピックがいかに重要かは想像できる。であればこそ厳正な判定を期待したい。人間がやる以上、誤審の可能性(ミスや恣意がまぎれ込む)というなら、究極的には人間が介在しない方がいい。

究極の審判は、機械か?

 ジュリーによるビデオ判定はそれほど機械的じゃない。ビデオを巻き戻したり、スローモーションで見るのに時間もかかる。だから現在は補助的な扱いになっているが、一歩進めて、審判ロボット(ビデオ解析プログラム)を開発すべきだろう。バグのないプログラムはないが、誤審のない人間を目指すより、ずっといい。
 整理しよう。

  • A.人間が主 - 誤審があろうと、人間の判定を優先すべき。
  • B.機械が主 - 誤審をなくすためなら、人間の審判を排除してもいい。

 常識的に考えてBだろう。陸上競技がストップウォッチや巻き尺で判定されるのに、柔道に審判ロボットを導入できない合理的な理由はあるかな?

徳治か、法治か?

 このテーマは、ほかの問題にも適用できそうだ。

  • A.徳治主義 - 君主の徳性によって人民を教化すべし。
  • B.法治主義 - 法に基づいて国政を行うべし。

 私たちはB.法治主義を選んでいる。法の支配といっても、法律を作るのは人間だから、主権放棄ではない。カリスマ政治家の気まぐれで運用されるより、ずっといい。

 法治主義も万能ではない。最大の問題は判断が遅いことだ。柔道も即座に勝敗を決めなければならないから、(誤審の可能性があっても)人間の審判を配置してきた。だがもし、代替手段があったら?
 現代の技術なら、ビデオ映像から決められた技を瞬時に認識できるだろう。もちろん、機械には認識しづらい技や、人間が見てないと危険な場面もあるだろうが、いずれ解決されるはずだ。

 そのとき、スポーツは選ばなければならない。

 スポーツは、徳の高い審判によって治められるべきか、厳正な法によって治められるべきか。

※写真は究極の審判ロボット・ゴート(地球の静止する日より)

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