
「ホームズさんが死んだって、本当ですか?」
真っ青な顔で叫ぶレストレード警部に、ワトソンは静かにうなずいた。
「ライヘンバッハの滝で、モリアーティ教授もろとも滝壺に転落しました」
「ど、どうなってるんです?」
ワトソンはこれまでの経緯を話した。
ヨーロッパで起こる犯罪の陰に、巨大な悪の才能があることをホームズは見抜いていた。
その名はモリアーティ教授。
きわめて高い知能の持ち主であり、自分は直接手を下さず、さまざまな犯罪計画の立案をしていた。ホームズは彼を追跡し、ライヘンバッハの滝で対決。みずからの命と引き替えに、巨悪を葬り去ったのである。
◎
2階の窓からレストレード警部を見送ると、ワトソンはタバコに火をつけた。
(本当のことは話せない。
モリアーティ教授なんて存在しないのだ)
犯罪者の「出題」がなければ、探偵の「推理」もない──。
ホームズは稀代の名探偵だったが、その知性を最大限に発揮できる難事件、あるいは犯罪者に巡り会えなかった。ホームズは苛立ち、コカインに惑溺し、ついに精神の均衡を崩してしまった。そうして生まれた別人格が、モリアーティ教授なのだ。
『彼は犯罪のナポレオンだよ、ワトスン君。この大都会の半分の悪事、ほぼすべての迷宮入り事件が、彼の手によるのだ』
モリアーティ教授のことを話すとき、ホームズはどこか嬉しそうだった。
ホームズとモリアーティ教授。
どんな犯罪も見抜く探偵と、どんな探偵も出し抜く犯罪者。
2人の追いかけっこは、ライヘンバッハの滝で終わりを迎える。ホームズの多重人格に、ワトソンが気づいてしまったのだ。社会の敵となったホームズ(=モリアーティ)を殺さなければ!
◎
「レストレードは帰ったかい?」
隠し部屋からホームズが顔を出したので、慌ててカーテンを閉めた。
「まだ顔を出しちゃ駄目だろう!」
怒られたホームズは、ごめんなさいと頭を下げた。
ワトソンは親友を殺せなかった。
しかし放置しておけばすべてが崩壊する。そこで、「相打ちになった」と発表することにした。さいわいモリアーティの人格はホームズに吸収されている。3年も養生すれば大丈夫だろう。そしたら「じつは生きていた」ことにして、活動を再開しよう。
2人は隠し部屋で、ハドスン夫人が作ってくれた晩飯をもぐもぐ食べた。
「すまないねぇ、ワトソン君」
「仕方ないさ、ホームズ。
きみのことを書いた小説が、意外に売れているからね。
ぼくにもきみが必要なんだよ」
(998文字)
ショートショート (55)
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