第58話:吾輩は犬である 嫁から「動物を主人公にした話を書け」と言われて、書いてみた。 いつもと違った雰囲気に仕上がったように思う。 犬の散歩だと、警官に呼び止められる回数が減るらしいよ。
2008年 ショートショート吾輩は犬である。
名前はあるかもしれないが、とんと見当がつかぬ。
ご主人様との関係は、おおむね良好。
そう思うのは、散歩の回数が多いからだ。昨年あたりから回数が増えた。ほぼ毎晩である。夜の散歩は味気ないが、鎖につながれた日中を思えばありがたい。
散歩のコースは決まっていて、同じ場所をぐるぐる回ってばかり。最近は、ご主人様がどこかへ消えてしまう。
そのあいだ、吾輩は公園のポールにつながれているわけだが、待ち時間はとても切ない。これじゃ家でつながれているのと変わらない。
待ちわびて、ご主人様を呼ぶこともある。
つまり大きな声で吠えるわけだが、こうするとご主人様はすぐ戻ってくる。このときの反応は複雑で、怒っているのに叱らず、好物のジャーキーをくれることもある。もっと早く吠えればよかったか。
ある夜、いつものようにご主人様を待っていると、縄がすっぽ抜けていることに気がついた。自由の身になった吾輩は、付近を散歩することにした。
歩いていると、怪しい人物を見かけた。と思ったら、ご主人様だ。
アパートの物陰で、双眼鏡をかまえている。電柱にしがみつく姿勢は、ポールにつながれた吾輩よりつらそうだ。声を掛けようと思ったが、やめた。もう少し自由を満喫したい。
アパートの反対側に出ると、大きな車が停まって、若い娘が降りてきた。
香水の匂いで鼻がムズムズする。
車が去って、娘がアパートに入ろうとすると、黒い人影が襲ってきた。娘さんが悲鳴をあげる。なんだかわからんが、本能が命じるままに吾輩は駆け出した。
◎
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
「と、とんでもないッス。
メグミさんを救えて、こ、光栄ッス!」
娘さんは何度も吾輩とご主人様に頭を下げた。
香水は勘弁だが、気だてのいい娘さんじゃないか。
吾輩が撃退した暴漢は、さきほどパトカーで連行された。娘さんは「あぃどる」で、昨年あたりから「すとぅかぁ」に付きまとわれていたらしい。それで警官が近くにいたのか。
よくわからんが、みんなが褒めてくれる。気分がいい。
「こ、これからも会っていただけませんか?」
カチコチのご主人様がお願いすると、娘さんがまた頭を下げた。
「ごめんなさい。私、留学することになったの」
空気が抜けた人形のように、ご主人様はへたり込んだ。
◎
それっきり、散歩の回数は激減した。
吾輩はいいことをしたはずなのに、この仕打ちは納得できない。
なにが悪かったのだろう?
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