創作  2009年12月26日(土)に書いた ショートショート

第69話:名女優の素顔

第69話:名女優の素顔

「ねぇ、まだ私の素顔を見たい?」

 意識を取り戻したチヨコさんは、唐突に切り出した。
 枕元の夫のゲンゾウ氏も戸惑っていたが、ハッキリした声で答えた。
「あぁ、見たいとも。そのために結婚したのだから!」
 チヨコさんの手を、強く握りしめる。いのちを逃がすまいとするように。

「覚えているかい? 出会ったときのことを。
 ぼくはキャメラマン、きみはすでに注目のスタァだった。快活な貧乏女中から、魔性な華族令嬢まで、どんな役もカンペキに演じてしまうきみに、ぼくは魅せられた。そしてぼくは、きみの素顔を見たいと思った」
「プロポーズの言葉は、正直、戸惑ったわ」
 チヨコさんの声は、耳の奥をくすぐるような艶やかさがある。老いてなお美しいと、その場にいる誰もが思った。
「夫になれば、素顔を見せてくれると思った。
 しかしきみは、ぼくの妻、3人の子どもの母という役をカンペキに演じてしまった。だから気づかなかった。きみの本当の気持ちに。
 聞かせてくれ。あのとききみは……」

「駄目。名女優は素顔を見せないものよ」
 それが、チヨコさんの最期の言葉だった。

 チヨコさんは往年の大女優。撮影所でインタビューを受けている最中に、突然倒れてしまう。さいわい、ゲンゾウ氏は近くにいたので駆けつけることはできたが、ふっと意識を取り戻したあとは、病院に運ぶ間もなく亡くなってしまった。

 一部始終を、大勢の映画関係者が見守っていた。
 まるで、映画の一幕のようだった。

「ゲンゾウさんはなにを訊こうとしたんでしょうね?」
 喫煙所で紫煙をくゆらせながら、ぼくは先輩にたずねた。
「あれは浮気のことだよ」
 即答されて、ぼくはむせた。

「出産を機に、彼女は映画産業から身をひくことになった。
 子育てに疲れたのか、スポットライトを浴びないせいか、彼女はみるみる老けていく。
 ところが親戚の書生さんが同居した頃から、艶やかさを取り戻す。
 魅せられた旦那は、邪推を確かめることができなかった。
 やがて書生さんが事故死すると、彼女は映画界に復帰。
 そして数十年の時が流れて……」
「ちょ、ちょっと待ってください。なんの話です?」
「知らんのか。『名女優の素顔』って映画だよ。あの共演がもとで、2人は結婚したんだよなぁ」
「えぇと、ど、どういうことです?」
 先輩はたばこの火を消して、つぶやいた。

「さぁね。
 意識が混濁していたのか、なにか意味があったのか。
 名女優の素顔は、誰にもわからんよ」

(989文字)

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第69話:名女優の素顔