第70話:作品と作家は同一ではない テレビで二世芸術家の話を見て、思いついた。 芸術センスが遺伝するとは思えない。 教育や訓練によるものなら、べつに直系がいるだろうと考えてみた。 嫁からラストの意味を質問されたので、解説。 ユミちゃんは作品と作家を同一視してるので、 真の作家であるジロウと結婚したいと言い出した。 ずっと一緒に作業してるのに、そこに気づかない彼女はボンクラだ。 また芸術家の遺伝子にこだわっていることから、自分で三世を産みたいと思っている。 スタジオに来た当初は、先生の遺伝子を求め、次はジロウに乗り換えようとしているのだろう。
2009年 ショートショート「ジロウさん、あたし、スタジオを辞めようと思うの」
ユミちゃんが突然ヘンなことを言うので、ぼくはコーヒーを噴いてしまった。
原稿をもっていたので、あわてて2人でコーヒーを拭き取る。間一髪セーフ。
なんだか気が抜けたので、休憩を入れよう。スタジオには、ぼくらしか残っていない。もう少し作業はあるけど、終電までには終わるだろう。
ベランダに出て、外の空気を吸った。
「ごめんなさい、びっくりさせちゃって」
「いいよ。それより本当に辞めちゃうの?」
ぼくらは、とある漫画家のスタジオで働いている。
ユミちゃんは優秀なスタッフで、チーフアシスタントのぼくを支えてくれる。辞めてほしくない。でもユミちゃんは漫画家としてデビューするつもりはなく、ずっとスタジオで働きたいと言っていたのに。
「だって、先生はまったく漫画を描かないんですもの」
ユミちゃんは先生の作品を愛していた。「崇拝」と言ってもいい。上京してきたのも、原稿が産まれるところに近づくためだった。
しかし先生は絵を描けない。
下絵もペン入れも、企画もストーリーも、すべてアシスタントがやっている。先生はよくテレビに出演して、サブカルチャー論を語っているけど、あっちが本業なのだ。
作品と作家は同一ではない。
業界じゃ有名な話なんだけど、地方出身のユミちゃんは知らなかったようだ。
◎
「才能って、やっぱり遺伝しないのね」
ユミちゃんは寂しそうに星空を見上げた。
先生は二世漫画家だった。
絶頂期にあった先代が早世して、多くの作品が宙ぶらりんになったけど、息子が仕事を引き継いだ。幼少時からスタジオに出入りしていた息子には、父の才能と魂が宿っていた......などと宣伝されたけど、全部ウソ。スタジオと出版社、代理店が結託してビジネスを存続させただけの話だ。
「ねぇ、先代の作品も、ジロウさんが描いていたの?」
ふざけた口調で問われたのに、
「まさか。描いてたのは親父だよ」
つい本気で答えてしまった。
「え?」
ユミちゃんは目を丸くした。
「あー、つまり、ぼくは二世アシスタントなんだ」
「えッ! えぇーッ?」
てっきり知ってると思っていたから、こんなに驚かれるとは思わなかった。
デビュー当時は先代が描いていたけど、絶頂期はほとんど親父が描いていた。だから、つつがなく作品を継続できたわけだが......しまったな。またユミちゃんの夢を壊してしまった。
長い沈黙のあと、ユミちゃんは呟いた。
「......結婚してください」
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