創作  2014年02月07日(金)に書いた ゆっくり文庫

【ゆっくり文庫】中島敦「山月記」

【ゆっくり文庫】中島敦「山月記」

人間になれなかった男──

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原作について

中島敦

中島敦
(1909-1942)

 33歳で早逝した中島敦の短編小説。高校の国語の教科書にたびたび採用されるので、知名度は高い。漢文を書き下ろしたような文章は、読むのは難解だが、聞くと耳に心地よい。しかし言葉が難解なため、細部を理解するには先生の手ほどきが必要になる。

 読み解いていくと、「切磋琢磨しなかったから罰を受けた」という道徳観が残る。なるほど教科書に適した題材だ。才能を鼻にかける生徒がいたら、「李徴のようになるな」と叱ればいい。意味がわからない生徒は無知をさらけ出し、意味を理解するには先生に教えを請うことになる。

 しかし釈然としない。協調性、人間性、勤勉さ、謙虚さってのは、詩人(=芸術家)に必要な資質だろうか? 孤立しようが、妻子を苦しめようが、美しい詩を書けばいい。困窮(妻子への義務)を言い訳にした時点で、李徴の可能性は閉じた。ハンパな道徳観は身を滅ぼすのだ。

 原文をそのまま朗読すると長くなるし、意味が追いにくい。しかし場面転換も乏しく、李徴の独白が多すぎるため、【ゆっくり文庫】のスタイルに向かない。なのでバッサリ省略した。ウサギを食らった話、長安の文化人に褒められる夢など、惜しい文章も多かったが、やむなし。オリジナルは青空文庫で読めるから、私は私の解釈を優先しよう。

「勇に誇ろうとしてではない」

 気になったのは別れ際、李徴が自分の姿を見せる理由として、「勇に誇ろうとしてではない」と余計な否定を入れたところ。口語なら「かっこいいところを見せたいわけじゃない」になる。李徴はトラの姿を嫌悪し、恐怖し、恥じていたはず。袁参も「見せてくれ」とせがんだわけじゃない。なのにどうして、こんな言葉が出てくるのか?
 李徴はトラになった悲劇を饒舌に語っていたが、内心では誇らしく思っていたのだろう。犬や猫ではなく、トラになったのだ。ほかの獣たちがひれ伏す存在だ。月に吠えるときも「おれって、かっこいい」と酔っていたにちがいない。自意識過剰な李徴は、獣になっても自分がどう見られているかを気にしていたのだ。

 袁参の反応は次第に乏しくして、終盤は相槌もわずかにした。袁参は、李徴のそうした気質(すでに酔っている)を見ぬいたのだろう。李徴の長々しい告白を削ったため、袁参の心情がわかりにくくなったかもしれないが、ここを強調すると乖離がひどくなるので見合わせた。伝わっただろうか。

 考察はドラマ仕立てにした。この不思議な体験が、李徴が仕組んだ狂言という可能性がないわけではないが、そこは本質じゃない。李徴はもう日の当たるところに出て来られない。「山と月の世界」へ行ってしまった。袁参は友として涙を流すが、いつまでも悲しんだりしない。「町と太陽の世界」には、気にかけるべき事柄が多いのだから。

 袁参が気持ちを切り替えるシーンは、この作品でもっとも描きたかったところだ。私は「山月記」を、あわれな李徴に同情する物語と思っていない。しょせん、李徴は負け犬だ。袁参も、やさしいだけじゃないキャラクターに仕上がった。

動画制作について

 草むらに隠れる虎と会話する......なんてシーンをどうやって表現するか悩んだ。「虎」を猫耳シルエットで表現できたとき、光明が見えた。夏目漱石の『文鳥』と同じで、できてしまえば簡単だが、思いつくまで苦しかった。
 李徴は目パチ、口パク、表情もつけたけど、俗っぽくなったので省いた。演習するのにかけた手間は無駄になったが、おそらく視線が李徴を離れ、袁参や背景に移っただろう。演出は答えがないから、これでいいのかいつも悩む。

山月記
※虎になった男

 「ボヘミアの醜聞」に広告がついたので、また張り切ってしまった。「山月記」の脚本は以前から放置されていたので、この勢いがなければ作れなかったかもしれない。そういう意味で、広告は背中を押してくれた。なんだかんだで反応に助けられている。

 次回も未定。

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