やはり公衆自殺機械は必要か

この記事は約2分で読めます。

 木城ゆきと著の『銃夢』第9巻に、最終喜械(エンドジョイ)という装置が出てくる。
 理想都市ザレムにある屋外建物で、公衆トイレに似ている。ときどき人が入っていくが、誰も出てこない。これは公衆自殺機械──自殺したくなった人をすみやかに、やすらかに、衛生的に処理するものだった。
 公衆自殺機械がなかったころは、そこかしこで自殺する人が出て、いろんな迷惑があったのだろう。公衆トイレがないと社会が糞尿にまみれるように。実際、公衆自殺機械が破壊されたとき、市民が驚いたのはその匂いだった。
 成熟した人間は、自由と権利を行使しつつも、社会に迷惑をかけない。ゆえに公衆自殺機械は、最高に文化的な装置と言える。


 12月17日、バスに刃物を持った男が乗り込んできて、乗客14人を刺すなどした。その場で取り押さえられた犯人は、「人生を終わりにしたかった」と供述したらしい。
 詳しい経緯は不明だが、2008年の秋葉原通り魔事件を思い出した人は多いだろう。「たくさん人を殺せば死刑になれるから」という動機のため、7人が殺され、10人が負傷した。
 そこまで若者を追い詰める社会の是非はともかく、誰もがこう思ったはず。「死にたいなら、ひとりで死ね!」と。
 しかしリアルな話、ひとりで死ぬのは大変だ。死ぬ勇気の問題だけじゃなく、後始末のことだ。犬猫のように勝手に死なれると、社会的に迷惑する。きちんと手続きをして、公共機関に一声かけてから逝くべきだろう。


 すみやかに、やすらかに、衛生的に人生を終わらせてくれる装置があれば、ニーズは高いかもしれない。産んじゃったけど育てられない親のために赤ちゃんポストがあるなら、産んでもらったけど生きていけない人のために公衆自殺機械があるべきだろう
(これから、こういう人が増えそうだ……)
 と思いませんか? 自殺者が13年連続で年間3万人を超えているのだ。みずから人生を終わりにできる人は尽きて、そうでない人の番になってもおかしくない。
 まじめな話、政治家は社会をよくするか、公衆自殺機械を設置するか、どっちかを選んでほしい。
■取手の刃物男「人生を終わりにしたかった」
(読売新聞 – 12月17日 11:48)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1442546&media_id=20

タイトルとURLをコピーしました