続・毒見役
2005年 哲学 毒味役昨日の日記で、私は毒見役の悲しい心理について書いてみた。
行き場をなくした毒見役は、毒を楽しみ、喜ぶようになる。
ついには、毒見役の仕事を誇るようになってしまう。
──これは、ありえない話だろうか?
毒は毒だ。毒を楽しめるはずがない。
第3者が見れば、毒見役の言っていることはおかしいと思う。
よく言えば、転職できない負け惜しみ。
ハッキリ言えば、精神異常である。
第3者には「悲惨だなぁ」と思える境遇を、当事者は「素晴らしい」と言う。
──これは、ありえない話だろうか?
ひとは、自分が立っている世界を肯定しようとする。
そこが悲惨であればあるほど、思いこみは強くなる。
「ここはいいところだ! 私は好んで、ここにいるんだ!」
憎むべき状況なのに、これを愛してしまう。
──これは、よくある話であろう。
自分の日記を読み返すとき、あるいはコメントが入ると、私は、私自身の考えを、第3者のように見ることができる。
すると、自分の中では絶対の真実だったものが、どうにも揺らいで見えることがある。
「この"伊助"という人物は、狂ってるのか?
仕事は仕事。仕事を楽しめるはずがない。
未来を拓けとかナントカ言っているけど、ホントは転職できない負け惜しみなんじゃない?
自分の境遇を、必死になって肯定しようとしているだけジャン!
もしかして……仕事マゾ?
悲惨だなぁ……」
もちろん、私は私を信じている。
私が選んだ世界を信じている。
自分の生き方には誇りをもっている。
当分、変えるつもりはない。
しかし私の主張は、ときとして理解されないことがある。
力説すればするほど、あわれみの視線を向けられることもある。
あの毒見役の話のように……。
その可能性を踏まえつつ、日記を書いていこう。
その可能性を踏まえつつ、ひとと接していこう。
信じる力が強い分だけ、注意深く歩いていこう。