消費と発電

2005年 哲学
消費と発電

どんなに好きな曲でも、繰り返し再生すれば飽きてくる。
まるで、「消費回数」という見えざるカウンターがあるかのように。
そしてこのカウンターは、人間にもあるのかもしれない。

──もちろん、音楽と人間はちがう。
人間は、接点をもつことで、好意が増えることがある。
1回の接点で、2を消費しても、3の発見があれば、その人の消費回数は減らない。消費回数:無限(∞)というわけだ。
一生つきあえる関係といえる。

これは、ネタが豊富という意味ではない。
ネタが豊富な人は、消費回数も多いかもしれないが、無限ではない。いつかは消費される。しかし発見をもたらしてくれる人は、消費とともに発電されるので、好意が減らないのだ。

そう考えると、じつは音楽も同じかもしれない。
まんぜんと聞くだけなら、消費されるのは早い
しかし聞くたびに、心にさざ波が起きるような曲は、飽きることがない。

──つまりこれは、聞き手の問題なのだ。

決まり決まった日常でも、新しい発見ができる人は、人生に飽きることはない。どこに行っても、どんな境遇でも、楽しむことができる。
逆に、刺激に反応するだけの人は、どんなものにもすぐ飽きてしまう。
音楽にも、漫画にも、映画にも、ゲームにも、仕事にも……人間にも。
つねに新しい、強い、珍しい刺激がないと退屈してしまう。

私は、「消費者」という言葉がキライだ。
食べ物、工業製品、サービス、娯楽などを、ただ吸い込むだけで、なにも生み出さない……というイメージがあるからだ。私も、市場においては「消費者」だが、消費するだけの人生には強い抵抗がある

私は、なにかを消費するときに、なにかを発電できる人になりたい。

──たとえば、こうだ。

パンが1つしかないなら、私に食べさせろ。
  パンを製造する知恵を授けてやろう。

DVDが1枚しかないなら、私に見せろ。
  その楽しみを、100人に伝えてやろう。

1時間しかないなら、私に付き合え。
  キミの中になにかを刻み込んでやろう。

……そんな人に、私はなりたい

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