自分の消費回数

2005年 哲学
自分の消費回数

私の日記にも、消費回数のカウンターがあるかもしれない。
1回読むごとに、1ずつ減っていくのだ。
それが0になると……読者は去ってゆく。

自分がいつも、消費する側にいるとはかぎらない。
なにかを作るとき、人は、消費される側にまわる

私にとって日記は「自分の内蔵を切り出したもの」である。
喜び、怒り、哀しみ、楽しみ……自分の内面そのものを調理している。
その日記が消費されていくのは、なんとも哀しい。
もっと読む人の心に残りたい……さざ波を起こしつづけたい……
消費されたくない……と思う。

──その気持ちは、恐怖に通じる。
消費されないために、ネタ集めに奔走する。時間に追われ、自分に負われ、空転しはじめる。気がつけばウケ狙いになっている。
こうして作品はつまらなくなり、さらに速いスピードで消費されていく。

──その気持ちは、孤立に通じる。
自分の作品が、舐めただけでポイ捨てされる。きちんと味わおうとしない消費者たちを蔑視するようになる。馬鹿なヤツらだと思うようになる。
こうして作品は独善的になり、消費されなくなっていく。

こんな日記ごときに大仰な話だが、私にもその気持ちはある。
気負いや焦りから、納得できない日記になったこともあった。
それは、まさしく自分の内蔵が澱んだような気持ちだった。

消費されていくことは哀しい。
しかし消費されることを恐れる気持ちは、だいぶ薄らいだ。

自分が汲めども尽きぬ泉であることは、私自身がよく知っているからだ。

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