自由の使い方
2005年 哲学 果実をとる方法果実をとる方法 【外伝】
──1997年(26歳)。
私はマルチメディアスクールの教務主任になっていた。
一方、Gは翻訳家からライターに転身していた。
仕事を経験し、そこそこの貯金ができたと見るや、Gは捨て身の作戦に出た。家を出て、小さなアパートを借りて、すべての仕事を断ったのである。
これは……1990年の雪辱戦だ。
世俗との関わりを断ち切って、執筆活動に専念しようというのだ。
◎
同じことを、私は1994年にやっていた。
学校を出たのに働かず、適当なバイト生活を送っていた。日がな一日好きなこと(小説を書くこと)ばかりしていた。
WinもMacもない。PlayStationも、インターネットもない。
この時代の引きこもりは、現在のそれとはちょっとちがう(と思う)。
だが……私は書き上げられなかった。
なんの制約もない、ほぼ完全な自由があったのに、できなかった。
私は自由に溺れてしまった。
◎
そして1年後……Gも失敗した。
書き散らかした原稿は、ついに1つの枠に収まることはなかった。
Gは、仕事でオーバーランを出したことがない。スケジュールを組み、計画的に文章を仕上げるスキルを身につけていたのに……駄目だった。
貯金が底をついたとき、Gは登頂を断念した。
アパートを引き払って、以前と同じ仕事に戻っていった。
不退転の覚悟で飛び出したのに、目的を果たせず撤収する……。
その気持ちがわかるとは、私には言えなかった。
※私には、Gほどの準備も決意もなかったから。
◎
──なぜ失敗したのか?
「才能がないから」というマジレスを無視すると、2人とも「自由を使いこなせなかった」ように思う。
仕事と同じように"これ"が攻略できると思ったのもマチガイだった。
仕事のゴールは自分の外にある。しかし"これ"は、自分の中にあるゴールへ向かう。このちがいを見誤っていた。
ゲームにたとえると、ボスを転ばせて無防備タイムを作ったのに、無効な武器で攻撃していたようなもんだ。こっちは気持ちよく連射していたが、ボスにはまったくダメージが入っていなかったわけだ。
そう思うと……悔やまれる。
あれほどのチャンス(自由)は、もう得られないかもしれない……。
物語を考えるセンス、それを表現する文章スキル。
果実をとるためには、まだ足りないものがある。
それがなんなのか、どうすれば手にはいるのか?
私はまだ、わかっていない。