閉ざされた親子

2005年 社会 教育
閉ざされた親子

休日のデパート。
ぼんやりエスカレータに乗っていると、背後から悪口雑言が聞こえてきた。

「てめぇ、ふざけんじゃねぇよ!
 わかってんのかよ。おらぁ!」

驚いて振り向くと、母親が男の子を叱っているところだった。
母親は20代後半くらい。だらしない格好に、汚らしい化粧。不機嫌そうな仏頂面。今時のママといった感じだ。
その口から出てくる言葉は、聞くに堪えなかった

恫喝(どうかつ )に満ちた悪口。ののしり文句。
こんな言葉を使うのは、ヤクザかチンピラだけだ。相手が亭主であろうと、友達であろうと、どんな状況でも許容されない。
そんなコトバを、母親が我が子にぶつけているのだ

母親はののしりながら、その子の頭をこづいていた。
「聞いてんのか? おめぇーはよ!」
男の子は、笑いながらエスカレータにもたれかかっていた。母親のコトバが聞こえないのか、聞こえないふりをしているのか......。
もう、見てられなかった。

ここで母親を注意できれば、どれほどカッコイイだろう。
だが、私はなにもしなかった。無視して歩き去った。
(どうせ注意したって、聞きやしないさ......)
そんな言い訳を頭の中で繰り返す。自分を正当化するために。

イヤなものは見たくない。
それでも目の前にあるなら、目をそらすしかない。
見えているのに、見えてないふりをするしかない

あの男の子が、まさにそうだった。
自分をののしる母親が、そこにいないかのようにふるまっていた。

アメリカの霊長類研究所で、十七組のゴリラの母子を観察した。
母と子の二匹だけを檻に入れると、母ゴリラは必ず子を虐待する。
グループで生活させると、子に母親らしい愛情を示す。

アイザック・アシモフ著「アシモフの雑学コレクション」より

人間は社会の動物だ。
社会(家族や周囲)の視線があれば、虐待をふせぐことができる。
「親と子しかいない」状況が危険なのだ。

しかし、あの母親はどれほど社会を認識できるだろうか?
大勢の人が見ていても、それを意識しなければ意味がない。
ましてや、誰もあの親子を注意しなかったではないか!
野放図にふるまっても、誰からも文句を言われない。
ならば、そこには誰もいないのと同じだ

「母と子の二匹だけを檻に入れると、母ゴリラは必ず子を虐待する...」