給食の思い出

2005年 生活 健康
給食の思い出

先日、『スーパーサイズ・ミー』というドキュメンタリー映画を観た。
この中で、アメリカの学校給食が紹介されていた。バイキング形式で、子どもたちは好きなものを選んで食べている。驚くべきは、その選択だ。
──ポテト、ポテト、ポテト、お菓子、お菓子、コーラ……。

監督は学校の給食係に詰問する。
「こんな食生活でいいんですか? ちゃんと指導しているんですか?」
学校側は答える。
なにを選ぶかは子どもの自由です。食事の安全性や栄養バランスは給食メーカーに問い合わせてください。」
場面は変わって、給食メーカーが答える。
問題は食事ではなく、教育です。食品メーカーの責任ではありません。」

誰も悪くない。悪いのは……子どもたちだ。
だから子どもたちは罰を受ける。
肥満と、それに伴う病気やストレス、不自由に悩まされるのだ。
そして、子どもたちは大人になって、自分の子に同じ教育をする。
つまり、「自由にやれ」だ。

最近はどうだか知らないが、私が子どものころは学校給食に自由はなかった。好きなものを選ぶことも、嫌いなものを残すこともできない。わがままを言えば叱られる。それが当たり前だった。
どのクラスにも、給食で泣く(泣かされる)生徒がいたもんだ。

──だが、世の中は変わった。
子どもの個性は保護され、アレルギーなどの特例も認められるようになった。そして学校給食や先生の指導が、つねに正しいとは言えなくなってきた。
アメリカでは、こうした事情が進んでバイキング形式になったのかもしれない。なるほどこれなら、子どもの自由は保護される。先生も、子どものイヤがることを強制せずに済む。
素晴らしきかな、豊かさと自由よ!

……で、不摂生な食生活で体調を崩したら、訴訟を起こせばいい。
政府や学校、食品メーカーの責任を追及しよう。
「偏った食事を推奨する広告のせいだ!」
「バランスのとれた食事を摂るように指導/教育しなかったせいだ!」
「とにかく私が不幸なのは、私以外の誰かのせいだ!

ふと、自分の食生活について思い返してみる。
私はもう大人だ。
なにを、いつ、どのくらい食べるかは、自分で決められるし、その結果について責任もとれる。

私は自由におぼれることなく、自分を律することができているだろうか?