井の中の蛙

2005年 社会 思考実験 海外
井の中の蛙

私が好きな諺のひとつに、こんなのがある。

井の中の蛙大海を知らず、されど天の高さを知る

前半だけだと、否定的な意味になる。
狭い世界に閉じこもって、広い世界のあることを知らない。狭い見識に囚われて大局的な判断ができないさまを示す。「そんなことを自慢しているようでは~だよ」などと使われる。

ところが、後半が加わると意味が変わってくる。
井戸の中のカエルは、考えや知識が狭くて、もっと広い世界があることを知らない。しかしそんなカエルでも、井戸の口から空の高さは伺える。たとえ狭いところに棲んでいようとも、外界との接点が乏しくとも、思慮深い人間に離れるのではないか、という意味になる。

思えば、誰だって「井の中の蛙」といえる。
井戸の中を飛び出して、河に出ようと、海に出ようと、そこが世界のすべてじゃない。中途半端なところで立ち止まって、自分より低い位置にいるものを蔑視するのは早計だ。たくさんの人と出会う営業マンよりも、アニメしか見ない引きこもりの方が人間的に奥深い場合はある。毎日、世界を飛び回っているビジネスマンより、パスポートさえない保母さんの方がグローバルな視点をもっていることもある。

囚人、奴隷、サラリーマン、社長、大富豪……。
いったい誰が大海を知っていると言えるだろう?
どこに棲んでいようと、天の高さ、青さ、深さに気づくかどうかは、本人の気持ち次第なのだ。

ちょっと語源ネタ。
後半の「されど天の高さを知る」という部分は、じつは日本人がつけた創作らしい。そもそもの出典は【荘子・外篇・秋水第十七】にある一節。

「井蛙不可以語於海者、拘於虚也」

井戸の中に棲むカエルに海のことを語ってはならない。カエルは自分の世界に囚われているから……というような意味になる。
亀と神様が出てくる話で、これはこれで秀逸な寓話だ。

後半をつけたのが日本人というところが興味深い。
日本は小さな島国で、中国から見れば「井戸の中」でしかない。そんな狭い世界であっても、工夫を凝らして発展することもあれば、大海を知るおごりが判断を狂わせることも……と喩えるのは、うがった見方だけどね。

……話がそれた。
つまり、私は「井の中の蛙」であることを忘れたくないのだ。
天の高さを知っているとは言わないが、そういう精神性をもちたいと思う。ここがどこであろうと、見えるものを見て、聞こえるものを聞き、できることをやっていこう。
たとえそれが、大海から見れば些末なことであっても……。

作家の高山樗牛も言っている。

「自分が立っている所を深く掘れ。そこからきっと泉が湧き出る。」