独りで観覧車に乗るか?
2005年 哲学 孤独「独りで映画を観るか?」
ことあるごとに私は友人・知人に尋ねてみた。
聞いてみると、あんがい“独りで楽しむ派”が多いので驚いた。
そうした中で、こんなヤリトリがあった。
◎
私「Tさんは、独りで映画を観るかい?」
T「うーん、あるかな。うん、あるある。」
私「じゃあさ、独りで遊園地に行くことは?」
T「実際に行ったことはないけど、行くかもしれない。水族館なんかは独りの方が楽しめる。」
私「それじゃ、独りで観覧車に乗るかい?」
T「観覧車に? 独りで観覧車に乗って、なにすんの?」
私「それを知りたいから聞いてるんだよ。」
T「うーん……」
しばらく考えたのち、T氏はこう答えた。
T「いや、ナニするかわかんないよ。おれ、脱いじゃうかも。」
つまりこうだ。
観覧車の頂点を通過する数分間は、ほかのゴンドラから死角になる。その数分間は、誰にも見られない。だから服を脱いで、裸になっちゃうかもしれない。あるいはもっとスゴイことを……。
“独りで観覧車に乗ったら、ナニするかわからない”というわけだ。
私「なんだそりゃ!?」
◎
しかし気持ちはわかる。(←わかっちゃ駄目だ!)
私たちの倫理観は、「誰かが見ているぞ」という意識(外圧)によって保たれている。
その外圧が消えると、私たちは本当の私たちに戻るのかもしれない。
独りで映画を観る、食事をする、旅行する……。
これらは、「誰かが見ているぞ」という外圧を消して(弱めて)、自分自身を楽しむ行為なのかもしれない。他者とではなく、自分とのコミュニケーションというわけだ。
一方、「誰かが見ているぞ」という外圧によって、自分自身を保っているひともいる(私がそうだ)。どちらがよいと、一概に言えるものではない。
だが、誰も見てないからと言って、脱いではいけない。