ゲームの醍醐味
2005年 娯楽 ゲームX先輩は重度のゲーム好きである。
しかも、再弱キャラで勝つことに無上の喜びを覚えるようだ。
たとえば『ストゼロ』のダン、『連邦vsジオン』の旧ザクのようなキャラを好んで使う。
※どちらも、めちゃめちゃ弱い。遅い、モロい、届かない、当たらない、続かない、とナイナイ尽くし。100円投入しても、なぶり者にされるだけキャラだ。
そんな最弱キャラで、勝利を目指す。
練習に練習をかさね、戦術を練り、めまぐるしくレバーとボタンを操作して、追いつめられてもアセらず、甘い誘いには乗らず、わずかなチャンスにすべてを賭けて勝利する。
その努力と成果は、見上げたもんだと感心するよ。
「モビルスーツの性能が、戦力の決定的な差ではない。」
旧ザクで連邦の白いの(ガンダム=最上級機)をほふることに、究極のカタルシスが存在するとX先輩はいう。
◎
──X先輩は語る。
「おれは20年以上もゲームをやってるんだ。
ふつうにプレイすれば、勝つのが当たり前。
最弱キャラはいいハンデだよ。
相手は瞬殺されずに済むし、おれもギリギリの興奮と緊張を楽しめる。
素晴らしいじゃないか!」
すさまじい自負心だが、X先輩にも悩みはあるらしい。
つまり先輩は、強くなりすぎたのだ。
ゲームが好きで、勝つことが大好きだから、徹底的に努力する。結果、ふつうの人では相手にならなくなった。本気でやれば瞬殺できるのに、カワイソウだから手をゆるめてプレイする。すると勝っても負けても楽しくない。
「ただ、勝てばイイと言うわけじゃない。
おれは本気で戦って、本気で勝って、本気で喜びたいんだ!」
最弱キャラは、そんな願いを叶えてくれるらしい。
考えてみると、奇妙な話だった。
「欲しいのは“機会の平等”だ。
勝てる可能性があれば、それでいい。あとは努力でフォローする。
努力するからこそ、勝つ喜びがある。
なんでも平均化してしまうのは、“結果の平等”だ。
強いキャラ、弱いキャラがいるのは当然のこと。
どれを使うか、どう使うかに、個性があらわれる。
お手々つないで、みんなで一等賞じゃ、なんの喜びもない。
誰にでも勝てる、一見平等なゲームほどつまらない。
苦しんで、考えて、努力した者だけが勝てる不平等なゲームほど、(レビューでは猛烈に批判されるが)猛烈に楽しい♪」
……なるほどなぁと思う。
なにか、ものすごく大切なことを学んだような気がする。
四十路手前にして、ゲーセンで子ども相手に本気になるのはどうかと思っていたが、これはこれでカッコイイかもしれない。