善意がこわい

2005年 哲学
善意がこわい

募金活動を見かけることがある。最近は、早朝の駅によくいる。
募金箱をもった子どもたちが、列をなして待ちかまえている。サラリーマンが通りかかると元気な声で「おねがいしまーす!」と叫んでくる。中には、絶叫を張り上げる子もいる。

「おねがいしまーす!」

私は、アレが苦手だ。……むしろ、こわい。

「募金活動=偽善」とは考えていない
NGO、NPO、ボランティアによる市民活動は必要だし、参加している友人もいる。彼は立派な人物だし、その台所事情を知れば、募金や寄付の意義もうなずける。

だが、子どもを使うのは卑怯じゃないか?
あの子たちは、活動の主旨を理解していまい。ただ「イイコト」と教えられてやっているだけだ。それじゃ、娘に売春させる親と変わらないのではないか?

「子どもを使った方が募金を集めやすい」という打算もあるだろう。それが悪いとは言わない。非営利団体であっても、効率的な手段を選ぶべきだ。娘を脱がせた方がうまくいくなら、脱がせばいい。
ただし、理解と同意は必須だろう。ボランティア(無償の奉仕)なら、なおのことだ。「イイコト」のためなら、手段が正当化されるわけではない。

……では、同意とはなんだ?
子どもから同意をとるなんて、チョロイもんだ。
そもそも「主旨を理解しなければ、活動に参加できない/させられない」と考える方が少数派だ。それに、ほんとうの意味で主旨を理解する/させることはできない。
それが必須条件なら、どんな活動も成立しない。

市民活動には、さまざまな矛盾と打算がある。
街頭に立つ子どもたちは、その象徴に見える。

ポスターもそうだ。貧しい子どもの写真を突きつけられて、「ほっとくんですか?」と問われれば、財布のひももゆるむ。だが、どうにも苦いものを感じずにはいられない

このキモチは、うまく説明できない。
市民活動そのものには反対していないので、どうにも整理できぬ。

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