市民活動のジレンマ

2005年 哲学
市民活動のジレンマ
ネタがつづいて恐縮だが、さらに書く。

私の友人に、Hという男がいる。
Hはもともと、印刷会社の営業マンだった。そこで辣腕をふるっていたのだが、ぎちぎちした生活に嫌気がさして退社。
福祉活動に従事するようになった

「そんな馬鹿な!?」と私は思った。
Hは、決してエリートではなかったが、高い評価を受けていた。そのまま進めば、ひとかどのポストに就けたはず。
なぜ、それを捨ててしまったのか?

そして、なぜ福祉活動なのか?
営業マンの生活はたしかに厳しい。だが、福祉活動はもっと厳しい。労働環境は劣悪だし、給料だって安い。私はむしろ、Hに起業してほしかった。
私はHを呼び出し、真っ正面からそう言った。だが、Hの決意は固かった。

「カネのために働くのは疲れた。
 できる/できないの話じゃなくて、できても楽しくない。
 それにおれは、福祉の仕事がしたかったんだ。
 やりたいことをやりたいんだ。」

かける言葉はなかった。

──数年が経過した。

Hは、福祉団体の中でもリーダー的存在になっていた。
Hが属する団体は、NPOとしての条件を満たしておらず、“任意団体”として扱われていた。任意団体では、さまざまな優遇措置を受けることができない。当然、台所事情は厳しかった。

Hの団体は、身障者に仕事を紹介したり、付随するトラブルを解決する活動をしていた。聞けば、「よくもまぁ……」とタメ息つくほど、仕事が多い。そして、その効率はきわめて悪かった

Hはこう言っていた。

「非営利組織であっても、効率は重要だ。
 むしろ、民間企業よりも厳しく管理されるべきだ。
 募金や寄付を無駄にしたり、
 ボランティア(無償の奉仕)に甘えるのはおかしい。」

だが……とHはつづける。

「だが団体職員は、熱意はあれども、効率の追求は苦手だ
 なんでも丁寧に、きめ細かく対応しようとする。
 だから無理も出るし、評価もしづらい。
 これでは、できることもできない……」

かといって効率を重視すれば、切り捨てられる部分も出てくる。
そんな「切り捨てられた部分」をケアするために、福祉活動(市民活動)があるんじゃないのか?
より多くの身障者を救うために、少数の身障者を切り捨ててもいいのか?
少数の身障者のために、より多くの身障者を救えなくてもよいのか?
そもそも、善意を効率化できるのか?

市民活動を専業で行う人は、「プロ市民」と揶揄される。
私も、善人気どりの活動は大嫌いだ。
だが、市民活動すべてを偽善と切り捨てることはできない。

市民活動とは……本質的に矛盾を抱えた世界なのだ

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