善意の体現者
2005年 哲学Hのたのみを、私は断ってしまった。もう、言い訳できない。「余裕がない」とか「関係ないから」ではなく、私は市民活動(善意)がキライなのだ。キライだから、やりたくないのだ。
率直に言いすぎてしまった。
私は距離を感じていた。Hはいい人の世界、私は悪い人の世界に属している気がする。募金もせず、プロ市民を揶揄する自分が、とてもイヤな人間に思えた。
恐縮する私に、Hはこう言ってくれた。
「会社ってのはさ、雇用を創出し、世の中を豊かにするんだ。
会社が存在するおかげで、ボランティアに参加できる人が増えて、
保護を必要とする人が減る。これは大きい。
100円や千円の募金なんて、ヒラがする必要はない。
そんなちっぽけなことで満足しないでくれ。
もっと会社を大きく、効率化してくれ。
そうすることで、世の中に貢献できているんだ。
やり方はちがうけど、
おれとヒラは、同じ世界に立っているよ。」
──鼻の奥がムズムズした。
◎
この日は、小説家志望のライターGもいっしょに呑んでいた。
※私とHとGは、高校時代からの付き合いなのだ。
Gがツッコミを入れた。
「そうだな。
この3人の中じゃ、おれがもっとも駄目だ。
おれは、自分を喰わせるのが精一杯の100円ライターだ。
起業する予定はまったくないし、
他人の面倒まで見られる性分でもないからな。」
自虐的なGに、Hはこう言った。
「Gは小説を書くんだろ。
世界中の言語に翻訳されて、
多くの子どもたちを感動させる物語を書くんだろ?
それこそが、Gにしかできない活動なんだよ。
それに比べれば、市民活動で救える人数なんて、ごくわずかだ。
世の中のために働くことに変わりはないよ。」
Gも言葉を失って、ウーロンハイをあおった。
私は重ねて、Hをスカウトできないことを悔やんだ。
◎
──誰もが善意をもっている。
市民活動とは、顕在化した(目に見える)善意なんだ。
彼らと接するとき、私たちは自分の中の善意と照らし合わせる。
近ければ共感し、遠ければ違和感を覚える。
だが、自分の善意にぴったり合致する行為なんて、あるんだろうか?
現実を知ろうとせず、数百円のバンドでイイコトしたと錯覚する。
いたいけな子どもを使って、募金をせびろうとする。
どちらにも善意を感じない。
それはチガウと思う。では、どういうものが善意なのか?
Hは教えてくれた。
「いま、きみがやっていることが、きみの善意だ。」