未完成の美?

2009年 娯楽
未完成の美?

「未完成の美」というものが、あるのだろうか?

私の友人に、Rという男がいた。
Rは多趣味で、ゲームにアニメ、漫画、同人誌、プラモデル製作など手広く楽しんでいた。Rの部屋にはたくさんのプラモデル(おもにガンプラ)が飾ってあったが、どれも完成直前で止まっていた
たとえば塗装が半分だったり、改造するための穴が空いたままだったりと、画竜点睛を欠いている。

「なんで完成させないの? 完成すれば、かっこよくなるだろうに」
私が問うと、
「未完成の美だよ。
 完成させちゃうより、未完成の方がかっこよく見えるんだ
とRは答えた。

その場は納得したものの、あとで気になった私はふたたびRに問うた。
「やっぱり、未完成の美なんてないだろう!」
するとRは、
「でも完成したら、終わっちゃうでしょ
と答えた。

完成したプラモデルは、見るしか楽しみがない。あとは少しずつ壊れていくだけで、惜しむなら箱に入れて片付けるしかない。
しかし未完成のプラモデルは、「ここはこうしよう」と考えたり、「よりよいアレンジはないか」と悩む楽しみがある。背中に翼をはやした姿も想像できる。つまり、そこにある実物以上の価値があるわけだ。だったら、あえて未完成のまま、手を加えつつ、長く楽しんだ方がいいじゃない、とRは説明してくれた。

あれから十数年が経過して、ふたたび考える。
「未完成の美」はあるのだろうか?

たとえば子どもは未完成だが可愛い。つまり、少しずつ成長していく過程に興奮するわけで、一瞬で大人になったらツマラナイ。そう考えると、未完成(不完全、可能性、成長過程)の美はあるような気もする。

しかし作品を完成できない人は、次のステップに進むことができない。
完成とは、自分のすべてを出し切ること。あえて完成させないのは、他者の批判を恐れているだけ。自分の限界と向き合わず、「本気でやればできる」と言ってるのと変わらない。
そもそも、育ってしまった子ども(完成した作品)に興味を持てないってのも傲慢な話だ。

  完成=もう手を加えるところがない=自分の手を離れる=終了

  未完成=手を加えるところがある=自分の手の中=継続(≒停滞≒挫折?)

プラモデルをどう楽しむかは個人の自由であり、正解などない。
しかし未完成を愛することは、危険なことのように思う。

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