ネット世代のリーダーとは

2010年 社会 デジタル
ネット世代のリーダーとは

うっかり『朝まで生テレビ』を朝まで見てしまった。

『朝まで生テレビ』を見るのは初めてだが、意外におもしろかった。田原総一朗の強引な仕切りが、話の脱線をふせぎ、個人に攻撃が集中したり、流れに取り残される人を作らないようにしている。好き嫌いはあるだろうが、うまいなぁと思った。
その中で気になった話題があったので、拾ってみたい。

リーダーは必要か?

4月のテーマは「激論! 出でよ!平成の龍馬 -平成鎖国・日本を打破するのは誰か-」。パネリストが意見を述べていくのだが、おおむね3つに分類できる。

  1. 特定の誰か(政治家や起業家など)
  2. 存在しない/まだ現れていない
  3. みんなが龍馬

2と3は似て非なるもの。2はリーダーの存在を認めているが、3は認めていない。その説明はこんな感じ。

3.みんなが龍馬

ネットが普及して、誰もが自由に情報を取得し、情報を発信できる時代になったから、もはやリーダーは必要ない。むしろ、誰かに救ってもらおうとする甘えた考えこそ革命されるべきで、それは個人の気づきによって果たされる。

理想論としてはわかるが、現実はまったく逆で、ネットによって情報や思想の並列化が進んでしまったため、リーダーへの希求は高まっている
twitterで個人の発言が世界中を駆けめぐると言っても、広まるのは影響力のある人か、影響力のある人に見つけ出された発言だけ。アルファブロガーや何十万ものフォロワーを従えた人から見れば、個人が世界を変えられるように見えるだろうが、あまりにも安直だ。

誰でもできるが、誰にもできない

若くして成功した人は、「やればできる」「誰でもできる」と実感し、それが成功の秘訣と錯覚する。ネットの普及が、そうした錯覚を増長させる。もちろん、世界を変えられる個人もいるが、そんな希有な例を持ち出して、「やればできる」「誰でもできる」と結論づけるのはおかしい。
みんなができることなら、あえて議論されることもないし、できない、やれない、影響力がない人にこそ、リーダーは必要なのだ。

理想的なリーダーは実在しうるか

坂本龍馬は故人であり、なかば神格化されている。しかし同時代に生きる人間が、これほどの尊敬を集められるだろうか。へんな言い方だが、リーダーさえ消費される時代なのだ。生身の人間では、期待を受け止めきれない。とすれば、集合無意識のようなものがリーダーになるのか? それをリーダーと呼べるのか?
攻殻機動隊で描かれたスタンド・アローン・コンプレックスに近しい現象だ。

けっこう、奥が深いテーマかもしれない。