私が「ガチャ」を嫌うわけ

2012年 社会 Webサービス 社会
私が「ガチャ」を嫌うわけ

 私が「ガチャ」を嫌うのは、射幸心をあおるからだ。

 射幸心(しゃこうしん)とは、偶然の成功や利益を求める気持ち。本来は「射倖」と書く。「倖」は、「努力を必要としない」という意味だ。
 なにも考えず射た矢が獲物に刺さればラッキー。そのラッキーを求めて、なにも考えず射つづけてしまう気持ちが、射幸心だ。

「ギャンブル」が嫌い

 ギャンブルは、射幸心を刺激することで成り立っている。たとえばパチンコは、ゲームとしては単純きわまりないが、景品やフィーバーの演出で射幸心をあおって、ファンを増やしている。
 射幸心をあおる度合いを「射幸性」と言う。射幸性が低いとギャンブルは飽きられるが、高すぎると興奮した客が身を滅ぼしてしまう。
 毎年毎年、パチンコ好きの親による児童放置が問題になるが、親が馬鹿なだけでなく、馬鹿な親を夢中にさせるパチンコの射幸性も見落としてはならない。
 自分はそんなに馬鹿じゃない……と思う人は多いだろう。しかしパチンコ業界は、そういう人からお金をかすめ取る研究をずっとつづけてきた。あおりのプロだ。
 パチンコ業界の目的は客を破滅させることじゃない──。大人の娯楽として、ほどほどに、長く楽しんでいる人は、むしろ術中にはまっていると言える。

 射幸心をあおるテクニックが活用されるのは、ギャンブルだけじゃない。
 2005年には、ペプシのおまけ(食玩)が「射幸性が高すぎる」として公正取引委員会に注意された。買うまで中身が見えないブラインド式や、コレクション性、レアアイテムの希少性が問題視されたわけだが、考えてみると妙だ。べつに買う人をだましたわけじゃない。仕組みは明らかだし、いやなら買わなければいい。ドリンクを独占しているわけでもない。

 ではなぜ注意されたのか? そしてなぜ、ペプシはすぐオープン式にあらためたのか?

 公正取引委員会が救いたかったのは、踊らされる弱者じゃない。弱者の破滅によって、景品が社会問題になることを防いだのだ。射幸心をあおるのは罪じゃないが、ヤリスギはまずい。
 企業の目的は、客を破滅させることじゃない──。大人の娯楽として、ほどほどに、長く楽しんでもらいたいだけなのだ。

「ガチャ」が嫌い

 さて、ソーシャルゲームの「ガチャ」の話だ。
 「ガチャ」は明らかに射幸性が高い。ごくまれにレアが出る。レアの価値は広く認知されている。1回ずつやるより、11回まとめてやった方がオトク……。すべて、射幸心をあおるテクニックじゃん。
 なぜ、ふつうにアイテムを買わせないのか?
 答えは明らかだろう。

 自分はそんなに馬鹿じゃない……。カードコンプをめざして何十万も払う人はごくまれだ。私は大人の娯楽として、ほどほどに、長く楽しむだけ……。
 あぁ、めでたい話だ。

 あおられる人を馬鹿にしてはならない。あおりのプロを相手に、冷静でいられるはずがない。だから私は、そういうものに近づかない。パチンコ、スロット、宝くじ、競馬、麻雀、食玩集め、投機、そしてガチャは、射幸性が高い。長く接していれば、どうしたって影響される。

 趣味にお金をつぎ込むことは悪くない。効率重視の人生なんて、くだらない。
 だけど、さしたる努力もせず、ラッキーを待つだけの娯楽に興じるのは……ひどく不健全に見える。オナニーを覚えた猿のようだ。まぁ、そういう熱心な人が、日本経済を支えている側面はあるだろうから、否定はしない。
 否定はしないが、私は距離を置きたい。自分を守るために。

 先の日記で「ガチャ」を否定的に書いた理由を、自分なりに考察してみた。