敬語という技術

2012年 社会 社会
敬語という技術

 黒柳徹子とローラの対決が話題になっていた。

 ローラというモデルさんは、まったく敬語が使えず、誰に対してもタメ口で話すらしい。そんな彼女が、あまたの芸能人が凹まされた「徹子の部屋」に出演するので、注目が集まっていたようだ。私は番組を見てないが、ローラがたどたどしい敬語を使うことで、穏便に済んだそうだ。まぁ、どうでもいい話だ。

敬語の効果

 どうでもいい話だが、ふと敬語について考えてみた。
 私自身、あまり敬語が得意というわけじゃない。つまり、目上の人と話すとき、つい、タメ口のようなしゃべり方をしてしまうときがある。それで険悪なムードになったことはないが、内心冷や汗をかいた経験は何度かある。
 一方で、年下の人にタメ口を使われて、むっとした経験もある。
(そんなことを気にするなよ。器が小せぇな)
 という意見もあるだろうし、私もまったく同感だが、実際にタメ口を使われると、むっとしてしまう。なんだか、とても軽く見られているような感じがする。

 敬語とは、相手への敬意を言葉で表現したもの。敬語を使わない場合、それは親しい関係と言うより、相手への敬意がないことの証明になる。
 私は超能力者じゃないから、その人の気持ちはわからない。目で見て、耳で聞いたことから、「こころ」を推測するしかない。とくに親しくもない若者からタメ口を使われれば、こちらに敬意をもっていないと判断するしかない。

 敬意がない、ということは、年齢分だけ下に見られていることになる。
(あんたはおれより年上だが、べつに大したことをしてないから、タメ口でいいよな?)
 と指摘されたようなもので、自分が大した人物でないことはわきまえたとしても、やはり気分はよくない。
(このクソ餓鬼が! 言葉づかいに気をつけろ!)
 と思ってしまうが、言いはしない。言ってもトクとはないからだ。

 そう考えると、言葉づかいと内心が一致するとはかぎらないね。
 若いころは、「思ってもいないことは言えない」とか、「自分に正直でありたい」と思い込んでしまうけど、敬語は単なる道具だ。目上の人とのコミュニケーションを円滑に進めるための作法であって、内心の敬意とは関係しない。むしろ、敬意を抱けない小人物ほど、敬語で話した方が無難だろう。

 歳を重ねると、若者への嫉妬心が芽生える。自分は使い切ってしまった時間や可能性を、若者はまだ持っているのだから。敬語は、そんな年長者のデリケートな気持ちに配慮した知恵なのだろう。

暗い期待感?

 黒柳徹子とローラの話題をあちこちで見かけて、なんで話題になるんだろう? と思っていたが、ひょっとした多くの年長者に、生意気なローラが凹まされるところを見たいという暗い期待感があったのかもしれない。

 いや、よく知らないけど。