COOPで「初心忘るべからず」を実感する / Left 4 Dead 2

2014年 娯楽 ゲーム
COOPで「初心忘るべからず」を実感する / Left 4 Dead 2

 『Left 4 Dead 2』で学んだことはほかのゲーム、あるいは実生活に反映できるだろうか?

 ぶっちゃけ言えば、ゲームが得意な人=処世術に長けている、わけじゃあない。むしろゲームが得意な人ほど社会から落伍する傾向にある。ごく一部の成功者は、「ゲームから多くを学んだ」とかインタビューに答えるけど、必ずそうなるわけじゃない。

 ゲームは上手だが、いわゆる「ブラック企業」に引っかかって苦労した友人がいる。なぜ「助けて」と言えないのか、なぜ「逃げる」を選択できないのか? まぁ、最後は逃げたけど、ゲームで見せる明晰な判断はなかった。
 ゲームの知恵を実生活に活かせないことは、ぜんぜん珍しくない。

応用する知恵があれば、ゲームと実生活は同じもの

 スポーツゲームから、体を動かすスポーツの感覚を学べるか?
 恋愛ゲームから、女の子とのコミュニケーションを学べるか?
 といった視点もあるが、まったく同じ条件じゃないと発揮できないものは知恵じゃない。賢い人は応用する。

 私はずっと、「ゲームはゲーム、実生活は実生活と切り分けること」が問題だと思っていた。ゲームの明晰な頭脳が実生活でオフになっちゃうと、応用もへったくれもない。ゲームと実生活を混同するのは馬鹿だが、応用できないのも馬鹿だ。

 そして今回、『Left 4 Dead 2』をプレイしてわかったことがある。

 初心忘るべからず──の精神だ。

初心──試練を乗り越える気持ちや知恵

 室町時代に能を大成させた世阿弥の言葉だ。「物事に慣れると慢心するから、はじめたころの謙虚な気持ちを忘れるな」と解釈されることが多いが、原典はもっと深い。
 世阿弥が晩年にまとめた「花鏡」の結びに、このように書かれている。

「しかれば当流に万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。是非とも初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。この三、よくよく口伝すべし」

 ウルトラ意訳すると、初心とは「がんばるぞー!」「社会の役に立つぞー!」みたいな初々しい気持ちじゃなくて、「初心者のみじめな気持ち」「失敗から学ぼうとする知恵」のことだ。

 初心──試練を乗り越える気持ちや知恵──を忘れなければ、新たな試練に直面しても「私は熟練者なのに、なぜできない!」と硬直せず、「私は初心者のころ、どうやって試練を乗り越えた?」と考えることができる。
 熟練者になれば、初心者だった自分──みじめで、みっともなかった自分を否定したくなるが、それでは万能を目指せない。

 ちなみに、「時々の初心忘るべからず」とは、年代ごとの初心──30代なら30代、40代なら40代で試練を乗り越える気持ちや知恵を積み重ねるようにと諭している。つまり、若いころの初心では対応できなくなることを暗に示している。初心は更新され、必要に応じて遡るのだ。

 また「老後の初心忘るべからず」とは、老後になっても試練がつづくこと、芸の修得に終わりがないことを説いている。人生はずっと、はじめて直面する試練の連続だから、初心──試練を乗り越える気持ちや知恵──は、ずっと役に立つ。

私は「できない」ことを知った

 話を『L4D2』にもどそう。
 私は危機的状況になると頭が真っ白になって、「助けて」と叫べないこと、「逃げる」ができないことを知った。まだ乗り越えてないから、ほかのゲームや実生活に応用できるかわからない。

 ただ、自分の弱さを知った。自分はもっとできる子と思っていたが、情報量が増えるとパンクした。このゲームが上手になっても、ほかのゲーム、あるいは実生活で応用できない可能性がある。いや、できないと覚悟しよう。

 実生活でゾンビの大群に襲われることは(たぶん)ないが、似たような危機的状況は起こりえる。そのとき私はパンクするだろう。だから、危機的状況にならないよう注意して、なってしまったら、いまの気持ちや知恵を思い出そう。

 いまの気持ちや知恵──危機的状況になるとパンクする自分を認め、落ち着かせるための工夫すること。私の工夫とは、「助けて」と叫びながら「逃げる」ことだ。落ち着いてから行動するのは無理だった。たとえば壁をぶちぬいて殺人鬼が襲ってきたら、「まず落ち着く」なんてできっこない。「助けて」と叫んで「逃げる」ことができれば、おのずと落ち着くのだ。

 いまの気持ちや知恵は、きっと未来でも役に立つ。

 そうなることを願って、初心を日記に残しておく。