
私は束縛されることがきらいだ。恐れているといってもいい。
動けない、出られない、買えない、はじめられない、終わらせられない、決められない…といった状況を私は恐れ、そこから脱するように頑張ってきた。技術を覚えて、起業して、ある程度の自由を得たとき、友人Aにこう指摘された。
「ヒラさんの自由には目的がないよ」
友人Aは指摘する。
「欲しいCDを買えないのは不自由だよ。でもね、CDを買う金を稼いで、CDを収納する棚を用意して、CDを聞く時間を作っても、聞きたいCDがなければ意味がない。欲望あってこその自由じゃないか?」
……まぁ、そうかもしれない。
数年前とちがって、いまの私には、コレのために生きているという目的意識がない。旅や食にこだわるのも、確固たる目的がないことの代償行為かもしれない。「自由を得るための戦い」と「不自由から逃れるための戦い」は、微妙に意味が異なるようだ。
友人Aのように享楽的・刹那的には生きられないが、彼の指摘については考えてみようと思う。
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