トゥルーマン・ショー The Truman Show

1998年 外国映画 2ツ星 SF ★妄想リメイク 管理社会

完全一人称なら強烈だったかも

あらすじ

典型的なアメリカの青年・トゥルーマン。その日常は隠しカメラによってテレビ番組「トゥルーマン・ショー」として放送されていた。彼が住む島は巨大なセットの中にあり、島の住人たち──母親、妻、友人すべては役者である。巨額の制作資金は、プロダクトプレイスメントで賄われている。
すべてが作り物であることに気づいたトゥルーマンは、監視の目をかいくぐり、現実世界への脱出を決意する。

アイデアはおもしろい。「なにもない空から照明器具が落ちてくる」とか、じつにシュール。しかし物語が進むにつれトゥルーマンへの感情移入は失われていく。キャストや撮影スタッフ、視聴者といった、「トゥルーマン視点では見えないはずのもの」が見えてしまったせいだ。
こうなるとトゥルーマンの脱出成功は既定路線となる。映画そのものが「トゥルーマン・ショー」になった。

もし、完全一人称だったら?

トゥルーマンは生まれてこのかた島から出たことはない。島の外にも町があり、人が住んでることを確かめたことはない。トゥルーマンの常識で「1人の人間を出生から24時間年中無休で配信するテレビ番組」なんて考えられない。その考えられないことが起こったとき、自分の常識で「外の世界」を推理できるだろうか?

もし、仕組まれた演出だったら?

トゥルーマンは隠しカメラの機能や配置を見破っているが、「不可知のカメラはない」と断言できるだろうか? それこそ自分の体内にカメラがあるかもしれない。またトゥルーマンは周囲の人たちの不自然な言動から、これはお芝居であり、商品宣伝と喝破したが、それだって与えられた情報による推理に過ぎない。

そしてローレン! あの突飛な言動が仕組まれた演出ではないと言えるだろうか? トゥルーマンに脱出を決意させる動機として、出演したかもしれない。そもそもフィジー島は実在するのか? 地球は丸いのか? 「外の世界」にいるのは同じ人間か?

ちょっとラストを書き換えてみよう。

★妄想リメイク

トゥルーマンは疑心暗鬼になり、部屋に閉じこもってしまう。親友が訪ねてきて、外でビールを飲む。トゥルーマンが疑問を打ち明ける。

トゥ:ぼくは・・・精神を病んでいるのか?
親友:まぁ、多少ね。
トゥ:外の世界があるとして、そこはいいところだろうか?
外に出たら、ぼくの物語は終わってしまうんじゃないか?
親友:小説を書けるよ。
トゥ:きみの言葉が本心か演技か、わからない。
親友:おれを信じるかどうかは、相談する前から決まっていたんじゃないか?
トゥ:・・・
親友:この島が世界で一番いいところとは言わないが、捨ててしまうのは惜しいと思うよ。
トゥ:・・・そうだな。

しかしトゥルーマンは脱出を決意。世界の果てにドアを見つける。一瞬の躊躇するが、虚空に向かって挨拶すると、ドアを開けて出ていった。

(おわり)

映画と同じラストでも、だいぶ印象が変わっただろう。外の世界が見えないからこそ、飛び込む勇気を問われるし、その結果を空想する楽しみあるのだ。
まぁ、ジム・キャリーを主演にした時点で、安直なコメディは既定路線だったか。

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