第62話:蜜の流れる地 ハチミツを舐めながら思いついた話。

2008年 ショートショート
第62話:蜜の流れる地

「わわっ、なにこれ? すごい!」

 なんという甘さ、スーッと溶ける爽やかさ!
 爺ちゃんが取り出したハチミツは、たとえるもののない天上の甘露だった。

「どうだ、ケイイチ。うまかろう? 下界の連中には内緒だぞ」
 "下界"という言葉に戸惑うが、秘密にしておきたい気持ちはよくわかる。このハチミツを舐めると、世俗のことはどうでもよくなる。

(これが爺ちゃんの秘密だったのか......)
 余韻にひたりながら、ぼくは物思いにふけった。
 爺ちゃんは大成功した事業家だったが、突然引退して養蜂家になってしまった。そのとき散逸した財産については、今でも親父は文句を言う。なるほど、このハチミツが爺ちゃんの人生を変えたわけだ。

 付近の山林は買い占められているため、誰も近づけないし、近づかない。
 なので親族も、世捨て人になった爺ちゃんの消息をまるで把握していなかった。それが先月になって、ぼくのところに召喚状が届いた。爺ちゃんに雇われた人が部屋にやってきて、強制的に山荘に連れてこられ、説明を求めるぼくに差し出されたのが、ハチミツだった。
 舐めればわかる。舐めなきゃわからん。

「このハチミツ、売ったりしないの?」
「売るなんて、とんでもない!」
 軽い気持ちで質問したけど、爺ちゃんは怒り出した。
 養蜂には気が遠くなるような手間がかかっていた。水や空気をきれいにしたり、競合するスズメバチを追い払ったり......。しかもこのハチミツには、巣に生息するキノコの成分が溶け込んでいる。さまざまな自然条件が重なって精製された奇跡のハチミツであり、それをちょっぴり分けてもらっているだけだと爺ちゃんは言う。
 しかし苦労するだけの価値はある。
 なんとこのハチミツは完全食であり、爺ちゃんはこの十年、ハチミツだけで暮らしてきたそうだ。

「だが、わしも齢じゃ。そろそろお迎えが来るじゃろう。
 そうなる前に、おまえに跡を継いでほしいのだ」

 爺ちゃんの話はわかったが、気になることがある。
 つまり、この「仕組み」の頂点にいるのは誰かってこと。どう考えても爺ちゃんは、働きバチの一種でしかない。

 深く考えようとしたが、なんだか、どうでもよくなってきた。
 蜜のために働くのは、ここも下界も変わらない。
 どうせぼくはヒキコモリ──。
 ここにはネットもあるし、映写室もある。さらに天上のハチミツまであるのだから、これ以上求めるものはない。

「もうちょい舐めるか?」
「うん」

 下界に帰る気持ちは、もうなくなっていた。


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