28年ぶりの養老渓谷ハイキング(日帰り)
2010年 千葉県 #旅の計画 #養老渓谷ハイキング実家に用事ができたので、ついでに養老渓谷を歩いてきた。
紅葉の季節だし、軽い気持ちの散策だったが、思いのほかハードだった。おまけに腰を痛めてしまったようで、しばらく安静するハメに。「疲れた」ではなく、「壊れた」ってことか。断っておくと、悪いのは養老渓谷ではなく、私の腰骨である。
一日の行程を書き出しておく。
翌日は実家で釣り具を探したり、ペーパークラフトを作った。夜は渋谷の釣具店へ行き、N氏と飲んだ。揃えた釣り具をもって、ふたたびアクアラインを抜けて木更津へ行くのだが、それは別の日記にて。
- 08:00 - 自宅を出発。すでに道路は渋滞気味だった。
- 09:00 - 海ほたるPA。急旋回・急上昇がよく見えた。
- 10:00 - 久留里城散策。山城でした。
- 11:30 - 月崎駅。24年前の思い出がある駅。
- 12:00 - 養老渓谷:沢ルート。転ばないよう、バランスを取りながら歩く。
- 13:00 - 日高邸跡。ここから尾根ルートへ。
- 14:00 - 日高誠実顕彰碑。登り切った。
- 14:10 - 大福山展望台。期待していたほどでは......。
- 15:00 - 粟又の滝展望台。駐車して、沢へ下りる。
- 15:30 - 見晴らしの道コースを下りて、駐車場へ。
- 15:40 - 粟又の滝。24年、ずっと変わらず滝は流れ落ちている。
- 16:40 - 滝めぐりルートから帰還。疲れた。
- 17:30 - 月崎駅。夜はイルミネーションが点灯した。
- 20:00 - 実家へ。疲れ果てた。
28年前のハイキング
小学6年生の春(1982年・15歳)、私は仲良し3人組と養老渓谷にハイキングした。大人を伴わず、自分で計画した最初の旅だった。五井駅で乗り換え、養老渓谷駅を降りたときの興奮は、いまも覚えている。
養老渓谷のどこを、どう歩いたかは、よく覚えていない。街道を歩いて粟又の滝へ行き、そこから渓流に沿ってひたすら歩いた。若かったからいくらでも歩けたし、柵を乗り越えたり、崖を下るのも自由自在だった。
※同行した山中俊一と渡辺直人。いま、どこでなにしてるだろう?
※ルートを無視して歩いた
※粟又の滝で記念撮影
※そのころの私
Stand By Me
「このまま千葉まで、歩いて帰ろうぜ」
誰かが言い出した。私だったかもしれない。無謀だが、とにかく歩けるだけ歩くことにした。道がわからないので、小湊鐵道の線路を歩いた。ずぅっと歩いていけば、五井駅に出られると思ったのだ。養老渓谷駅から五井駅までは34.9kmもあるのだが、もちろん知らなかった。
時効だから告白するけど、このとき鉄橋も歩いて渡った。枕木のあいだからのぞく川が遠くて、高くて、怖かった。
※日が暮れてきた
日が暮れると、あたりは真っ暗になった。漆黒の闇だ。「鼻をつままれてもわからない暗さ」という表現があるが、まさにそれ。となりを歩いているはずの友人も、声を出さないと所在不明になる。目の前で声がして、びっくりしたこともある。
時効だから告白するけど、このときトンネルをくぐり抜けた。じつは真っ暗な外より、トンネルの方が明るかった。ディーゼルの匂いがきつかった。通常、トンネルの出口は明るく見えるものだが、夜なので、照明が途切れるところが出口だった。
外に出て、道路に戻ったところで、小湊鐵道が突っ込んできた。トンネルの中にいたら危なかった。
そうこうして月崎駅に出た。無人駅で、改札も券売機もない。不安を緒しこりしていると、やがて闇の中から一両編成の気動車が現れた。その不気味さを、どう表現すればいいだろう。銀河鉄道に乗るような気持ちだった。
「おれたち、じつは死んでるかも」
と冗談を言ったら、友だちが本気で怒った。本気で怖かったのだ。
あれから28年──。
私はふたたび、養老渓谷にやってきた。