「ついにブラック・ウィドーを妻に娶ることができた」
きょう、80歳の誕生日を迎えるカツシゲ翁は、微笑みながらグラスを掲げた。
「いやだわ、そんな言い方されては」
きょう、結婚したばかりの若い妻ヒトミも、グラスを手に取り乾杯する。
海辺に佇む広大な屋敷に、今夜はふたりきりだった。
「ヒトミよ。わしは十分に生きた。
戦うだけの人生だったが、末期におまえと出逢えて幸福だった」
ソファに身をあずけ、遺言のようなことをつぶやく。
「変なことをおっしゃらないで。私をまた未亡人にするおつもりですの?」
「ふふ、交尾したオスを殺す毒蜘蛛《ブラック・ウィドー》か……」
翁は目をつむり、ゴシップ紙の見出しを思い出した。
ヒトミはこれまでに2度結婚し、2度死別している。
その相手が資産家ばかりで、莫大な遺産をつづけて相続したとなれば、世間の耳目を集めても無理はない。殺人や陰謀の証拠はまったくないのに、人々はヒトミを冷遇した。そんな中、カツシゲ翁だけが彼女を擁護してくれた。
くいっと酒を飲み干すと、翁はおかわりを求めた。
「そのへんになさっては…」
言いながらも、ヒトミはブランデーを注ぐ。翁は笑みを浮かべて、また一気にあおった。飲み方がおかしいので、ヒトミは心配になった。
「なかなか死なんな……」
熱い息を吐いて、翁はこの1年を振り返った。
ヒトミと知り合って半年後、翁は婚約を発表する。
翁の夫人と子はすでに他界しており、死後の財産の行方が注目されていただけに、この発表は大きな波紋を呼んだ。関係者たちは必死になって翁を説得したが、婚姻を止めることはできなかった。
それもそのはず、翁は死ぬつもりだった。
翁は心臓を患っており、余命幾ばくもない。人生のすべてに勝ってきた男が、病気に倒れるのは不本意だった。そこで翁は、魔性の女に殺されることを望んだのだ。
「なに言ってるの? 私は誰も殺してないわ」
しんみり告白されて、ヒトミは目を丸くした。
「それじゃ、あなたは私を信じてなかったの?
私の無実を唯一信じてくれたから、あなたと結婚したのに!」
ヒトミは激高し、離婚すると言い出した。
「そ、そんな馬鹿な!」
なにかに気づいたカツシゲ翁は、屋敷を飛び出した。
そして無謀な運転の末、崖下に転落してしまった。
後日、ヒトミは翁の手紙を発見する。
そこにはヒトミへの惜しみない愛と感謝が記されていた。
葬儀の朝、喪服をまとったヒトミは、手紙を破って海にまいた。
(997文字)
1987年の映画『ブラック・ウィドー』から思いついたエピソード。映画では「魔性の女」を野心家として描いていたので、いまいちだった。DVD化もされなかったしね。本当にミステリアスなのは、そこに意図があるかどうかわからない女性であろう。いわゆる天然の女性は、魔性の女に化ける素質があると思う。