第37話:ホトケの舌
2008年 ショートショート「どうなさいました? 部長」
ミカに声をかけられ、我に返った。
打ち合わせがてら食事をするため、レストランにやってきた。そこでグラスに入った水を飲んでいたんだ。
「なぁ、ここの水はうまいよな?」
「え? あぁ、そうですね。
ちゃんと濾過してるみたいだし、レモン果汁も入ってます」
私は決してグルメではない。どちらかといえば味覚音痴だ。そんな私が突然、水の味を言い出したから、ミカも面食らっている。
「いやなに、娘のことを思い出してね」
私は気づいたことを、ミカに話すことにした。
「知ってるかい? 子どもの味覚は大人より鋭いんだ。
金額やブランドに騙されない。ものの本質を見抜く。いわば、ホトケの舌をもってるんだ。
「娘が小さいころ、家族でレストランに行ったんだ。
すると、娘が食事を区別していることに気づいた。娘はちょっと味見して、それが美味しく、安全で、自分の身体に必要なら食べる。そうでなければ残す。その店で一番高いメニューであっても容赦しない。
わがままを叱ろうかと思ったが、考え直した。親がアレコレ指示するより、子どもの感覚に任せた方がよいだろうと」
「それで、どうなったんです?」ミカはつづきを促した。
「それで、娘を自由に育ててみた。
食事だけではなく、食器や衣類も娘に選ばせた。子どもの感覚は本当にすごい。微かな匂い、微かな異物も見逃さない。自分にとってよいものを的確に選んでいく。いつしか私たちは、娘を中心に暮らしていたよ。
だが、問題もあった...」
私はトーンを落として、話をつづけた。
「当時、私は浮気をしていてね。
自分でも注意してたんだけど、娘が、その痕跡に気づいた。それでほどなく、妻の知るところとなった。まぁ、大喧嘩になって、結局、離婚することになった。
そして娘をどちらが引き取るかも、娘に決めさせることにしたんだ」
「それで部長が選ばれたんですか?」
「あぁ、妻はショックを受けていたよ。
鋭敏な娘が、だらしない私を選ぶはずないと思っていたんだろうな。
実際、選ばれたのは私じゃなかった」
「どういう意味です?」
「いま気づいたんだが、娘は母親を選んだんだよ」
「えぇ? 私をですか? 部長?」
「部長はよしてくれ。今は結婚して、旦那様だろ」
「それはそうですけど、外では部長です。
それじゃ部長と結婚できたのは、私がフードコーディネーターだからですか?」
「それも、とびきり優秀なね。
きみの作る料理を、娘は残したことがないよ」