【ゆっくり文庫】中島敦「名人伝」 Archer without a Bow (1942) by Nakajima Atsushi
2018年 ゆっくり文庫 ファンタジー 中島敦 日本文学077 名人は技を見せぬ──
古代中国の青年・紀昌(きしょう)は、天下一の弓の名人になると志す。長い研鑽の果て、彼はついに究極奥義「不射之射」を会得するのだが・・・。
原作について
中島敦
(1909-1942)
いかにも中国古典のような筆致だが、昭和17年(1942年)、つまり76年前に発表された日本の短編小説である。「弟子が天下一になるため師匠を殺そうとする」とか、「不射之射」といった逸話は『列子』(道家の文献)から引用しているが、このように組み合わせた(茶化した)のは中島敦のセンスだ。にもかかわらず、「古書に記された事実を曲げる訳には行かぬ」などと書いてしまうところがステキ。
中島敦は依頼を受けて、一ヶ月足らずで本作を書き上げたそうだ。享年33歳。生前最後の作品である。どれほど中国古典に精通し、どれほど考察していれば、こんな物語をひょいと書けるのだろう? あと少し彼に時間があったなら、と惜しまれる。
紀昌は天下一の弓の名人になれたのか?
紀昌は天下一の弓の名人になれたかどうかは、作中では明らかにされない。「不射之射」は、名人の象徴として描かれているから、会得していれば名人、していなければ名人だが、披露されなかったため判断できないわけだ。
- A.紀昌は弓の名人である
- 紀昌は不射之射を会得したが、哲学的理由によってそれを伏せた。射に対する一切の執心から解放され、ついには弓という道具を忘れてしまった紀昌は、名人の理想像である。
- [疑問] なぜ甘蠅老師は紀昌に不射之射を見せて、それを伝授したのか?
- B.紀昌は弓の名人ではない
- 紀昌は不射之射を会得しておらず、伏せることによって実力を偽装した。
- [疑問] なぜ飛衛は紀昌を認めたのか? 意識的にウソをついてきた人間が、弓を忘れるということがあるだろうか?
Wikipediaによると研究者の間でも意見が分かれているそうだが、私の感性では「B.紀昌は名人ではない」しか考えられない。「目を開けたまま寝る」とか「百本の矢が一本のごとく連なる」といった奇跡が起こる作中世界においても、不射之射は魔法である。紀昌以外のだれも見たことがない魔法が存在し、見せなかっただけで会得していると信じられる方が不可解だ。
9年にわたる修行(=失踪期間)でおのれの限界を悟り、一世一代のペテンを仕掛けたのかもしれない。あるいは紀昌自身も不射之射が実在し、会得できたと思いこんでいたのか? いずれにせよ、正気の沙汰ではない。すなわち名人と狂人は見分けがつかないのだ。
理想的な名人
とはいえ紀昌が理想的な名人であるのはそのとおり。「不射之射」を見せたところで、人間はいずれ老いる。どこかで失敗し、「名人も衰えた」と見捨てられるだろう。しかし最初から伏せておけば、威光は永続化される。見事な戦略である。
また名人の威光によって邯鄲の人々は自尊心を満たし、盗人は見えざる射に萎縮した。もし「不射之射」を見せていたら、人々は役に立つかどうかを考え、盗人は名人が衰えるのを待っただろう。
- C.紀昌は真の名人である
- 不射之射を会得していようといまいと、伏せることによって紀昌は名人と認められた。不射之射を見たがる輩をあしらい、自身のみならず他者にも安泰をもたらした紀昌が名人であることは、疑いようもない。
そもそも「不射之射」を会得したら天下一の弓の名人、という発想がまちがっている。念力で鳥を落としたところで、どれほどの戦力になると言うのか? 「不射之射」を会得したかを問うた時点で、ペテンにはまっている。
名人を生み出す構造
「名人伝」の主題は紀昌の真実ではなく、名人を偶像化する人々の滑稽さを描くことにあると思う。邯鄲の人々は紀昌を「木偶のごとく愚者のごとき容貌」を見ていながら、飛衛が認めたとたん名人として祭り上げる。中島敦は、「なるほどと、至極物分のいい邯鄲の都人士はすぐに合点した」と書いている。彼らは自分が見聞きしたものより、権威に追従している。阿呆なのだ。
マヌケな出来事なのに、いかにも中国の故事のように語ることで、信憑性が高まっている。読者もまた、中国故事の権威性に惑わされる。
※「あれが何の道具か理解らぬ程に」 漫画「刃牙道」より
ライオン部長の話
30代はじめ、自身をライオンと称する部長さんと仕事をした。ライオン部長はバブル期入社で、成功しか知らない自信家。「おれはなんでもできる」と公言し、部下たちを飲み会に連れ回し、高圧的に支配した。当時、私はプレゼン資料を作っていが、「いいか、PowerPoint書類を上手に作れることは目的じゃない。おれは、おれの名前で受注できるからな」と豪語した。
業績が悪化してくると、ライオン部長の叱咤は増えた。「おれに伝家の宝刀を抜かせるつもりか?」「おれが出たら終わっちまうぞ!」と怒鳴られ、部下たちも懸命に働いた。しかし課長の造反があって、ライオン部長が前線に立たざるを得なくなったわけだが・・・いやはや、ひどかった。
ライオン部長には技術も、知識も、経験もなかった。使えるコネもなく、対人折衝も下手くそ。小学生が「偉い人のふり」をしてるのと変わらない。ほんとにひどい。それでも部下たちはライオン部長を信じ、フォローしたが、やがて疲れ果て、空中分解するわけだが、そこは別の話。
「不射之射」を見た、と私は思った。
ライオン部長は横暴だが、それなりに慕われていた。トラブルがなければ、そのまま名人でいられただろう。まぁ、横暴が過ぎてトラブルを招いたわけだから、自業自得だけどね。
してみるとやはり、紀昌は名人であった。そう確信するのであった。
朗読/映像化
江守徹の朗読「名人伝」
読むのが苦手な人におすすめ。「山月記」もそうだけど、めちゃくちゃ巧い。
人形劇「不射之射」
「NHK人形劇 三国志」の川本喜八郎さんが制作した人形アニメーション。日中合作。24分。日本語ナレーションは橋爪功。素晴らしい出来栄えで、二度三度見返すことで気づく演出も多い。必見。原作と比べると、人形作家の工夫がわかって楽しい。
※川本喜八郎「不射之射」 表情豊かな人形たち
Civ4名人伝
これも好き。ゲーム「Civilization」を知らなくても、なんとなく理解できると思う。
【ゆっくり文庫】で取り上げること
きっかけはリクエスト。私はリクエストに応じないが、興味をそそられれば制作する。とはいえ制作に2年もかかってしまった。やれやれ。
ゆっくり文庫さんの「名人伝」解釈がすごく見たい。
— マラリア (@mararia_nico) 2016年10月1日
紀昌は果たして不射之射を会得したのか。
はたまた何も覚えず帰ったのか
「至射は射ることなし」を悟ったならば、それを見せた老師は至射ではなかったことになる。
人形アニメ「不射之射」の出来がよかったから、同じものを作る意義はない。しかし原作をただ読んだり、見るだけでは、「不思議なこともあったのだな」で流されてしまう。やはり考察に踏み込んでみたい。蛇足になっても、やらねばならぬ。
翻案と動画制作
プロローグ
名人となった紀昌に弟子がやってくる後日談を考えたが、うまくまとまらない。そこで『トム・チット・トット』と同じスタイルで、青娥と橙の会話パートで挟むことにした。『運命の道』を作る前のことだ。
※伸び悩む若者(橙)を、胡散臭い大人(青娥)が惑わそうとしている。
この構図は、ゆかたろさんの同人誌「じゃせんちゃんのいうとおり!」を参考にした。こちらは青娥が八雲藍を惑わせている。青娥がデフォルメされているのは、「八雲紫との縁を切って道教を吹き込む」という悪辣さを緩和させるためと思っていたが、ゆかたろさんのアイコンにも採用されており、お気に入りキャラクターだったようだ。
紀昌、特訓す
紀昌(きしょう)役は魔理沙。主演作が連続しないよう調整するつもりだったが、余裕がなくなった。すまんな。
飛衛(ひえい)役はパチュリー。私がまず疑問に思ったことは、1.飛衛は意味のある特訓を課したのか、それとも2.馬鹿な若者を追っ払うため、実現不可能な特訓を課したのか、だ。その答えは、飛衛の目を見ればわかるが、描写されない。なのでサングラスをかけて、目を隠した。よく見ると、ふつうの目である。
私は「飛衛はまじめに接していない」と解釈しているので、ゲームをやらせた。しかし2つ目の課題をクリアしたことで、無視できなくなり、ちゃんと向き合っている。
※そもそも飛衛は名手だったのか?
百歩を隔へだてて柳葉を射るに百発百中する
一歩80cmなら、百歩はだいたい80メートル。弓道の遠的が60メートルだから、人間に実行可能な条件である。
※遠的練習 (千葉県立佐倉東高等学校より)
ターゲットの柳葉(りゅうよう)は「小さく揺れ動くもの」という意味だろうが、柳の葉は多いから当たるのは当然。当たったら「それを狙った」といい、外れたら「すべての葉をよけた」と言ったのではなかろうか?
人形アニメ「不射之射」では、「赤い印をつけた柳の葉」としてターゲットを区別している。【ゆっくり文庫】は表現を簡略化するため、Minecraftの「カカオの実」を使った。
※人形アニメ「不射之射」で柳の葉を射るシーン。
瞬せざることを学べ
原作は多くの事例が紹介されているが、テンポを優先している。
ところで眼とすれすれに機躡が忙しく上下往来するや遽ただしく往返する牽挺が睫毛を掠めてもと記述されるが、往来するのは梭(おさ=シャトル)ではなかろうか? いずれにせよ【ゆっくり文庫】では表現できなかった。
※人形アニメ「不射之射」は再現度が高い
※紀昌の妻はアリス。不幸な妻が似合う。
※時間経過を示す式アイコン
視ることを学べ
第二の特訓は、視ること。これも虱を捕まえ、毛でつなぐ動きは再現できないため、窓にかけられた虱に妻が驚くように演出した。シラミのドット絵は私が描いた。リアルな写真を大きくするわけにはいかぬ。
※名手の目(魔理沙)
※動画出力すると赤が見えにくくなるため、強調した。
紀昌、修行する
「目の基礎訓練に五年もかけた甲斐があって紀昌の腕前の上達は、驚くほど速い。」とあるが、あんな訓練に意味があったとは思えない。この点を強調すべく、最初のテーマであった「百歩離れて柳葉を射る」を、修行開始前にクリアさせた。
「いっぱいに水を湛たたえた盃を右肱の上に載せて剛弓を引く」という試練は、手足のないゆっくりには再現できないため、頭の上に載せた。
なにを言われても「はい」と答え、実行する紀昌。愚鈍に思えるほど素直だ。
※盃を右肱の上に載せて剛弓を引く
※盃を乗せるため、帽子を脱いでもらった
紀昌、飛衛と対決する
奥義伝授が終わると、師弟対決。このシーンが、本作で最初に作ったところ。大変だが、語ることはない。見たものがすべて。
※疑問を差し挟む橙。
問答無用ではじまった殺し合いは、矢が尽きたところで終了。師弟は抱き合って涙を流す。わけがわからない。中島敦も、(こうした事を今日の道義観をもって見るのは当らない...)と注釈を挟んでいるが、主人のため息子を蒸し焼きにしたとか、父が死んだ夜に愛妾を襲ったとか、例示がシーンに合ってない。テキトーな故事でごまかしたようにしか見えない。
紀昌、甘蠅老師から不射之射を教わる
ここも原作をだいぶ省略しているが、テンポよくまとまった。甘蠅老師を演じるのはチルノ。あからさまにインチキで、「ほっほっほ」「むうううん」などのセリフで笑ってしまう。
※甘蠅老師(チルノ)。白髪バージョンも作ったけど、使わなかった。
※インチキMAXパワー。個人的に好きなシーン。「魔理沙とチルノが仲良くする動画を見たい」というリクエストに答えたものだが、ちょっと違ってたかな?
※人形アニメの甘蠅老師もいい味わいだった
紀昌、名人となる
邯鄲に帰ってきた紀昌は、パチュリー、咲夜、美鈴によって名人と讃えられる。本気で信じているのは咲夜だけっぽい。美鈴は「おかしい」と思っているが、もう疑問を口にできない。こうして名人は作られる。
短いシーンのため、魔理沙とアリスの老人状態を作った。老人の後ろ姿なんて一瞬しか出ないのに、手間をかけさせやがる。でもまぁ、不幸続きだったアリスには、いい贈り物ができたと思う。
※人形アニメ「不射之射」の老夫婦
※老夫婦。アリスのしあわせ。
※報われたアリス。
エピローグ - 名人とは?
物語が終わると、橙と青娥の考察タイムがはじまる。そのまえに、東方Projectや元ネタを知らない人のため、状況を説明する。
橙(ちぇん) - すきま妖怪の式の式化け猫。八雲藍(らん)の式。ここでいう式は強化呪文のことだが、意味合いとしては道具である。橙はまっすぐな性格で、自分が道具であるか否かは気にせず、八雲藍を慕っている。原作の一人称は「私」だが、「ぼく」とした。 | |
霍青娥(かく・せいが) - 壁抜けの邪仙道教の修行を積んで不老不死となったが、邪悪な性分のため仙人と認められず、邪仙に堕ちてしまった。道教の技術を会得しながら、その理念に反した女。道教的なものを茶化す「名人伝」を語るのに、彼女ほどふさわしいキャラクターはいない。 | |
八雲藍(やくも・らん) - すきま妖怪の式 もともと九尾の狐であったが、大賢者・八雲紫の式(道具)となり、八雲藍の名前を与えられた。その藍が化け猫を自分の道具として、橙の名前を与えた。ゆえに藍は「すきま妖怪の式」、橙は「すきま妖怪の式の式」と呼ばれる。 |
道教(Taoism)
中国三大宗教(儒教・仏教・道教)のひとつ。不老長生・現世利益を主たる目的とする。
「名人伝」の元ネタである「列子」は、道家(老荘思想)の書籍。道家は、宇宙の根源的存在としての「道(Tao)」にのっとった無為自然な行いを重視する思想。礼や徳といった人間性は否定されるため、「列子」には奇想天外な話が多い。道家は神仙術と結びついて、道教(Taoism)が成立する。
ざっくり下記のように解釈している。
- 儒教 ... 礼節、序列を守れ。
- 道教 ... 人智のおよばぬ真理がある。
- 仏教 ... 精神のトレーニング。
錬丹術 (Chinese alchemy)
中国の錬金術。特殊な方法で生成された丹薬を服用すれば、不老不死になると信じられた。もちろんそんな効果はなくて、口車に乗せられ命を落とした権力者は多い。にもかかわらず、権威は揺らがなかった。科学ではなく信仰だったから。
つまりオカルトだ。どんなに否定されても、人間の知的限界が闇を作り出す。道教にとって丹薬に効果があるかどうかは問題じゃない。民衆が、「自分たちの知らない特殊な叡智を知っていそう」と思うことで、権威が生み出されるからだ。
青娥の目的
橙がいずれ大妖怪になったとき、自分の影響力が効くようにしたい。丹薬を飲ませることは目的ではない(効果がないため)。橙が、「青娥は自分の知らない叡智を知っているかもしれない」と思い込めば、なにかのとき相談に来てくれるかもしれない。だから八雲藍に妨害されても問題ない。
まぁ、深いことは考えていない。失敗してもかまわない。ただ純真な若者で遊んでみただけ。
あなたは「不射之射」を求めるか?
橙はインチキと批判するが、青娥の考察によって迷いはじめる。飛衛のように技を磨いても、これほどの効果は得られない。また年老いて技が衰えることを考えると、紀昌のやり方はむしろ正しいのではないか?
しかし青娥も橙も妖怪だから、「人は必ず老いる」というセリフを盛り込めなかった。道教丹薬も、「自分が知らない叡智」の象徴なんだけど、ややこしくなったかも。
とはいえ、これ以上のプロットを思いつかないので、公開する。
※威嚇する藍
八雲藍は「結果を問わない」と明言することで、紀昌の生き方を否定した。
橙は「どちらが正しいか」ではなく「どちらが気持ちいいか」で判断した。
私は紀昌をインチキ名人と思っているが、彼の生き方や功績を否定するつもりはない。彼のような人間は必要だ。また青娥のような毒も必要だ。無用の用である。だから、どちらを選んでもいい。
紀昌や飛衛を罵るだけでなく、ちょっと考えてほしい。
あなたは「不射之射」を求めるだろうか?
あなたは名人と狂人を、見分けられるだろうか?
雑記
いよいよ完成が近づいたとき、まだ投稿していない私の動画を視聴したと言う人が出てきた。「エア視聴」というか、「不作之作」というか。私も名人の域に近づけたかもしれない。
みょこすけさんの動画投稿を待とうと思ったが、こちらも余裕がなくなってきたので公開した。
ゆっくり文庫さんリスペクトの動画を作ろうかなー、といくつかの古典(?)作品を並べてみて、「『名人伝』はゆっくり文庫さんがもう上げていたから作るとしても視点を変えて、ってカンジでやったほうがいいよなぁ」と思って本家本元の動画を復習しようとしたら、そもそもまだ上がってなくて震えた
— みょこすけ (@myokosuke) 2018年8月7日
ミステリーに比べ、カタルシスに欠けたかもしれない。
考察など入れず、ただ映像化すべきだったかもしれない。
でもまぁ、作品についてあれこれ考えることが【ゆっくり文庫】の楽しみと思ってほしい。