N氏とブラック・スワン

2011年 娯楽
N氏とブラック・スワン

 N氏が『ブラック・スワン』という本を読んでいた。

 バレリーナの映画ではなく、不確定性やリスクについて書かれた本である。人類はなぜ大事件を予測できないのか? 予期せぬ出来事にどう備えるか? が考察されている。
 おもしろそうだが、めちゃくちゃ分厚いし、高い。おまけに、とても読みにくいそうだ。なのでN氏に要約してくれと頼んだが、要領を得ない。それほど難解な本なのか、N氏の要約スキルが低いのか……。
 ネットは便利なもので、たくさんの書評がヒットした。独自の解釈を加えたエントリーも多い。あらかた読んで、主旨を理解した。
 原著を読まず「わかったつもり」になるのは危険という意見もあるが、気にしない。「ツァラトゥストラ」をあきらめたときに吹っ切れている。

ブラック・スワン=予期せぬ出来事

 本書が言及する「ブラック・スワン」には、サラエボ事件、ヒトラーの台頭、ソビエト連邦の崩壊、インターネットの登場、911世界同時多発テロ、サブ・プライムローン問題などが当てはまる。その条件は3つ。

  1. それまでの知識や経験では、あり得ないとされていながら、
  2. いざ起こると、大きなインパクトを与え、
  3. 起こったあとは、「じつは予測できた」と指摘される事象。

 3つ目が秀逸だ。これがあるから、「なぜ警告が無視されたのか?」と紛糾する。言い換えるなら、人類はどんな災害も「予測できたはず」と考える習性がある。知識や経験がもたらす錯覚と気づかず。

「ありえない」なんて、ありえない!

 直近では、フクシマ原発事故がまさにそれ。津波によって全電源が喪失するなんて、1.それまでの知識や経験では、ありえないとされていながら、2.いざ起こると、大きなインパクトを与え、3.起こったあとは、「じつは予測できた」と指摘されている。
 事故から日が経つにつれ、「津波による被害は予測されていた」という過去のトピックが注目されていく。もちろん、事故の検証は必要だが、すべてを「予測できたはず」と考えるのは誤りだ。

 100年単位では起こりえない災害も、1000年単位では起こりうる。しかし1000年単位の災害に備えても、10,000年単位の災害に出し抜かれる。たとえば隕石が落下してきて、もし人類が生き残れたら、「恐竜の絶滅から隕石の落下は予測できた」と主張されるだろう。
 つまり……キリがないのだ。

「ありえない」があったら、どうする?

 ブラック・スワンは予測できないから、最悪の事態(被害の最大値)に備えよ、と著者は述べている。しかし、なにが最悪か定義できないため、具体性は乏しい。

 それでも、言わんとすることはわかる。「ここまで備えれば絶対安全」なんてのは幻想だから、つねに最悪の事態を想定する習慣をもつべきなのだ。「無知の知」と同じだ。森羅万象において、人類の知見のおよぶ範囲などわずか。未来の可能性をすべて予測し、すべてに備えるなど不可能である。だからといって、未来を予測したり、備えを期すことが無意味ではない。万能ではないが、無力でもない。そのことを知っていれば、より適切な対応ができるだろう。

 2度目のゴルフのとき、N氏は「iPad用のワンセグチューナーを買おうと思ってるんだ」と言い出した。災害時に停電になっても、iPadをテレビ代わりに情報を得て避難できるから、と言うのだ。
 私は首をかしげた。東京が停電したら、テレビ局も放送できない。テレビ局は無事で、有益な避難情報を流しており、それをiPadで受信しないとピンチな状況なんて、絶対ありえない!

「甘いよ、ヒラさん。
 ありえないなんて、ありえないんだよ」

 N氏は、ブラック・スワンの考え方を完全にマスターしていた。

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