不発弾

2004年 哲学
不発弾

──深夜、後輩のYが訪ねてきた。

事前連絡もない。不在だったら、どうするつもりなんだ。
「いえ、なんの用もないので……」と、Yは屈託なく笑う。

立ち話もなんなので、ドライブに出る。
市街地を抜けて高速、さらに山奥へと向かう。目的地などない。
流れゆく街灯。水槽の中にいるような気分。

たわいのない会話をして、明け方に戻ってくる。
(いったいなにしに来たのだろう?)
こんな訪問が、半年から1年ごとにある。

若者Yは、魂の燃焼を求めているように見える。
しかしそれが果たされないまま、時間ばかり過ぎていく。
すると、内側に秘めたパワーは、その圧力を増していく。
もはや燃焼では足りない。爆発を欲している。

なんとなく脳裏に浮かぶのは、「不発弾」のイメージだ。
地中深くに埋もれたまま、誰かが信管を叩くことを待っている。
早く爆発させてやらないと、どんどん危険になっていく。

女には、愛する人の子を産みたいという衝動があるらしい。
男には、全身全霊をかけて「なにか」を成し遂げようとする衝動があるようだ。

詳しい話は省くが、かつてはYにも熱中するものがあった。
だが、輝ける時間は過ぎ去った。
今はもう、遠い日の花火のようだ。

新しい「なにか」を、Yは求めている。
大人になった自分にふさわしい、大きく、価値ある「なにか」を……。
なんとなく、それを期待されているような気がするのだが、私には、それを指し示してやることはできない。
私だって、自分を起爆させるのに精一杯なのだ。

……すっかり夜が明けた。
走り去るYの車を見送りながら、ふと思う。

日本には、不発弾と化した若者が多いのではあるまいか?
気持ちを爆発させることより、抑制することばかり教えられた若者たち。その抑圧されたパワーが淀み、歪んで、さまざまな問題を引き起こしているように思える。

(日本中にある不発弾を、片っ端から爆発させてみたい……)
危険な発想ではあるが、そんなことを思った。

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