我慢スルナ
2005年 哲学 我慢「健康にいいから我慢して食べなさい。」
と言われて、マズイものを食べさせられる。
「社会人なんだから我慢してやれよ。」
と言われて、イヤな仕事を押しつけられる。
我慢すると、いいことがあるのだろうか?
なんで、我慢しなければならないのだろうか?
余談だが、「我慢」とはもともと仏教の言葉で、「思い上がること、自分を偉いと思いこむこと、他者を馬鹿にすること」という意味だ。
「慢」という字は思い上がる心を示している。すなわち「我慢」とは、我をよりどころにして思い上がること、自分で自分を持ち上げている状態、自分を支える大地(根拠)がない様子、と解釈される。
「自慢」「高慢」「傲慢」と同じく、本来は愚かさを指摘する言葉だったのだ。
──まぁ、語源の話はともかく、我慢の価値は問いたい。
健康にいいか悪いかは、科学的にも証明しにくい。それをテレビや雑誌で見ただけで、人に強制するのはいかがなものか?
イヤな仕事でもやるかどうかは、本人のライフプランや価値観によって判断されるべきだ。それを指図して、いかなる責任をとれるというのか?
我慢すればいいことがある。我慢なくして成功はないよ。
そんな言葉に騙されたくはない。
どこで我慢(忍耐)すべきかは、自分で判断できる。
他人に押しつけられるなら、「我」慢ですらない。
それに……我慢はいろんな意味で毒だ。
マズイものを無理して食べていると、身体にいいものかどうかを見抜く感覚が鈍くなる。舌ではなく、情報で食べるようになってしまう。
イヤな仕事ばかりやっていると、正常な判断ができなくなってしまう。自分の気持ちを殺して、上司の鼻息で動く人になってしまう。
──我慢に価値などない。
自分で判断し、その結果に対して責任を持てばいい。
どうせ一度きりの人生だ。せめて納得できるよう生きるべきだ。
……と、思うのだが。
人はなぜ、命令を求めるのだろう?
みんな、我慢が好きなのかなぁ。