やむをえない

2005年 哲学
やむをえない

誰にも迷惑をかけずに生きていくことは可能なのだろうか?

答えは……否だと思う。
なにかを望めば、誰かに迷惑がかかる。誰にも迷惑をかけたくないなら、自分を殺すしかない。生きる(存在する)ということは、誰か(世界)に迷惑をかけることだ。

だからといって、すべてが許されるわけじゃない。なるべく迷惑をかけないほうがいい? そんなことはわかってる!
……「なるべく」とはなんだ?
相手によって、状況によっては、迷惑をかけてもいいということか?

私には夢がある。やりたいことがある。なるべく迷惑をかけずに実現したい。だが、迷惑がかかる(犠牲が出る)とわかっても、やめたりはしない
私はつねに自分の都合(夢)を優先させてきた。相手が死ぬとわかっていても、私はボタンを押す。そうした犠牲の上に、いまの私が成り立っている。

  2人を殺して、3人を救う?
  価値のない1人を犠牲にして、価値のある1名を活かす?
  ヌルイ10名を切り捨てて、ガンバル3名で分配する?

これらは、やむをえない犠牲なのだろうか? やむをえない、といえるほどの努力をしたか? なにに対して、やむをえないのだ? あまりにも独善的ではないか?

  1,000人を犠牲にしても、自分の夢を達成する。

その結果、1,001人を救えば許されるのか? 救うってなんだ? 許されたいのか? 正当化したいのか?

──心がゆれている。
大きく息を吸って、平静さを取り戻そう。なんのことはない。人は、生きるために食べる。食べ物からいのちをもらう

それと同じことだ。

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