[アニメ] 輪るピングドラム / おもしろいけど、わからない

2012年 娯楽 アニメ 考察
[アニメ] 輪るピングドラム / おもしろいけど、わからない

 友人に勧められて、『輪るピングドラム』をまとめて見た。

 『少女革命ウテナ』から12年──。幾原邦彦が満を持して世に送り出したオリジナルアニメ……と思っていたが、コメンタリーを聞くかぎり、制作現場は混乱していたみたい。思わせぶりな不条理演出の数々は、入念に計算されたものではなく、幾原監督の脊髄反射だったのか。それはそれですごい。

 ネットの反応はおおむね好評で、「感動した」「素晴らしい」「泣けた」といった賛辞が踊っている。しかし私はそこまで楽しめなかった。1話ごとの盛り上がりは強烈だが、全体的なストーリーは破綻している。よくある迷走パターンだ。
 なのに繰り返し4回も見たのだから、つまらないわけじゃない。「よくわからないけど魅了される」のは、幾原マジックというほかない。

 不条理な物語に、一定のスジを求めるのはお門違いだが、それでも私は下記のテーマについて決着を見たかった。

家族か恋人か?

 冠葉が陽毬に寄せる思いは、かぎりなく異性愛に近い。血のつながりがないから、男と女として愛し合っても問題ないが、冠葉は陽毬に求愛せず、陽毬も態度を明らかにしなかったのはずるいだろう。
 一方、双子の妹である真砂子も、冠葉にストレートな愛をぶつけている。真砂子は冠葉を、家族として求めていたのか、男として愛していたのか、こちらもあいまいだ。
 家族愛、友情、そして異性愛は異なるものだ。なんぜも異性愛に結びつけてしまうのはおかしい。「家族」や「生存戦略」をテーマなので、ここは切り分けてほしかった。

他人を犠牲にすることの是非

 冠葉は陽毬のためなら、破壊も殺人もいとわない。実際、冠葉は数名以上の警官を殺している。殺された人にも家族や兄妹がいただろうに、自分だけあっさり転生して解決ってのはずるい。
 愛する人のためなら、殺人も許されるのか?
 何者でもない他人のいのちは無価値なのか?
 禁断の問いを発しておきながら、答えがなかった。

何者にもなれないとは、どういう意味か?

「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」
 とプリンセスは断言する。しかし冠葉も晶馬も言い返さない。そんなことはない(=何者かになれる)と信じているのか、どうでもいい(=何者にもなれなくてもいい)と思っているのか。刺激的な否定文句だが、登場人物が反応しないから浮いている。
 そもそも「何者にもなれない」とは、どういう意味か? 社会的成功ではなく、誰にも愛されない不幸を指しているとしても、冠葉と晶馬にそれをいうのはおかしい。

親の罪で、子が罰を受けるのか?

 近代刑法では親の罪で子が罰せられることはない。しかし社会通念上は、子が批判されることはある。作品ではこれを「運命」といい、おおむね受け入れていたが、本当に受け入れていたのか疑問が残る。
 三兄妹が親の罪で不利益を被った描写はない。攻撃してきたのは多蕗だけだ。むしろ三兄妹はのびのび暮らしているから、社会を憎むのもおかしい。

死は敗北か?

 陽毬は自分の死を受け入れており、「もっと生きたい」と願うシーンはなかった。なのに冠葉は強制的に延命し、家族の記憶を消すことになってしまう。それは陽毬にとって、望ましいことだったのか?
 生きていれば幸福というなら、いのちの総数が減ってしまう乗り換えは呪いでしかない。

眞悧は排除すべき存在か?

 眞悧は、誰にも愛されなかったことから、社会(箱)を憎むようになった憐れな存在に見える。それを世界から追放して解決ってのは、いささか直球すぎる。
 神さま(桃果)に嫌われたらおわり、というのも救いようがない。

 それぞれについて、自分なりの意見はあるが、それをまとめても魅力的になるわけじゃない。理詰めの発想では越えられない壁がある。

 『輪るピングドラム』は、そんなことを考えさせる作品だった。