[映画] ソウ / 陳腐化に抵抗しまくったシリーズ

2012年 娯楽 娯楽
[映画] ソウ / 陳腐化に抵抗しまくったシリーズ

 ソウシリーズ全7作を見た。

 いろんな意味で珍しく、おもしろい映画だった。残虐シーンが多いため、万人には勧められないが、シリーズを重ねることで見えてくるテーマもあった。自分なりに感想をまとめておこうと思う。
 なお、この日記は全7作を見た人のために書かれており、ネタバレを多く含んでいる。未見の方はお読みにならないように。

シリーズのあらまし

 ジェームズ・ワン(1977年生)とリー・ワネル(1977年生)は大学時代からの友人で、ともにハリウッドを目指していた。長編映画『ソウ』の脚本を書き上げたが、無名の青年が脚本だけで売り込むのは心許ないため、手持ちのカネで脚本の一部を撮影した。約8分のショートフィルムは制作会社の興味をそそり、2人はデビューを果たす。
 『ソウ』は低予算のため、18日という短期間で撮影された。2004年に公開されると、技巧的なストーリーが高く評価され、シリーズ化が決定する。
 ソウシリーズは毎年1本ずつ制作され、好評を博した。全8作の予定だったが、『ソウ6』の興業成績が振るわなかったため、全7作に切り詰められた。日本の配給会社は「本作が完結編となり、続編・外伝さらにビギニングも製作はしない」と確認をとったうえで「ソウ ザ・ファイナル 3D」と邦題を決定した。

ソウシリーズの長所と短所

 長所は得てして短所になる。もともとシリーズ化を想定していなかったため、後付け設定による矛盾や齟齬が起こっている。しかし制作者も心得たもので、「1作目に劣る」と評されることを前提にした構成は見事だった。
 長所と短所を挙げてみる。

1.特殊性の排除

○自分も同じ目に遭うかもしれないと言う恐怖を演出できた。
×トラップが大型化、特殊化、過激化、陳腐化した。

2.続編の時間帯、登場人物が重なっている

○息つく間のない緊迫した雰囲気に仕上がった。
×状況を理解するのが困難になった。視野狭窄。

3.殺人鬼の入れ替わり

○死亡したジョンが、なおゲームを支配する。
×全体を俯瞰できる観察者がおらず、混乱が増した。

自分が同じ目に遭うかもしれない恐怖

 『ソウ』(2004)が上映されたとき、「ソリッド・シチュエーション・スリラー」というコピーが使われた。極限状況における人間心理をスリリングに描いた映画、さらに簡単に言えば、脱出ゲームを描いた映画である。和製英語らしく、海外では使われていない。類型として、『CUBE』(1997)や『es[エス]』(2001)、『オープンウォーター』(2003)などが挙げられる。遡れば、ヒッチコックの『救命艇』(1943)も含まれるだろう。「ソリッド・シチュエーション・ホラー」まで広げれば、『エイリアン』(1979)、『遊星からの物体X』(1982)あたりも該当する。

 こうした映画と『ソウ』が異なる点は、特殊性が少ないことだろう。現実にありそうな場所に、実在する道具を組み合わせたトラップ。被験者も市井の人々で、怨恨などの関連性はない。つまり、いつ自分が拉致され、老朽化したバスルームで目覚めるかわからないわけだ。
 もともと低予算映画だから、ありふれた場所や道具を使っていたわけだが、うまい演出だった。

陳腐化したゲーム

 しかしシリーズ化されると予算がついて、トラップは大型化、過激化、陳腐化していった。ソウシリーズではトラップを考案したり、設営する手間が描かれるから、あまり大型なトラップは非現実的に見えてしまう。
 また、他者の生死を判断するトラップも多すぎた(ソウ3,4,6,7で半分以上!)。このタイプは複数のドラマを同時展開させやすいが、下記のデメリットがある。

他人のために自分自身を損壊させる行為は、共感しづらい。

→相応の人物描写が必要だが、6や7のように反するパターンが目立つ。

ゲームの道具として用意された人々に選択肢がない。

→ジグソウの信念に反する(後継者は模倣なので、信念がないのは当然か?)。

1つ1つの試練に悩む時間が短く、作業になりがち。

→時間制限が判断を軽くしてしまう。もっと悩み、選ばせるべき。

 ソウ3以降、ゲームの残虐性は増すばかりで、ストーリーが追いにくくなった。ゲームはソウシリーズの目玉だから、省けないのはわかるが、過度に注力しすぎたと思う。

正体を明かした殺人鬼

 殺人鬼は、正体不明であればこそ恐怖の対象となる。1作目のジグソウはその極地だったが、続編によって正体や目的が明かされていった。
 『ソウ4』で、ジョン・クレイマーが狂気に走った経緯が明らかになる。あまりにもふつうの出来事なので、多くの人はがっかりしたそうだが、私はむしろ戦慄した。
 特殊性がないからこそ、誰にでも起こりうる。誰もがジグソウになりうるのだ。それを証明するように、劇中には複数のジグソウが登場している。

 正体が露見したジョンはあっさり退場。映画を見たときは面食らったが、シリーズを振り返ると、見事な判断だったと思う。
 死んだ殺人鬼が、なおゲームを支配する不気味さはおもしろかった。

更正できたのか?

 ジグソウのゲームは苛烈だが、生還できれば魂を更正できるという。しかし2作目以降──正しくは1作目のラスト以降──生還者の「その後」はまったく描かれない。全7作で生還者は十数名に達するが、魂を更正できた人間は、ジグソウの基準に照らしても1人しかいない。つまり、きわめて効率が悪い。
 シリーズ化によって、ジグソウのゲームがもつ哲学性が失われてしまったのは残念だ。ジグソウは単なる殺人鬼ではないと思いたかった。

なぜ公開する?

 殺人が目的なら、犯行は露見しない方がいい。ジョンも最初の殺人は秘密裏に行っていたが、いつの間にか、見つかることを前提に犯行を組み立てるようになった。なぜ無用なリスクを負うのか?
 世間を騒がせることで、多くの人の魂を更正しようとしたのか? しかしそれらしい描写はない。ジョンの正確から、自己顕示欲は乏しそうだ。また模倣者(ホフマン)や便乗者(ボビー)の出現を迷惑がっていたように見える。バスルームのゲームのように秘匿された事例もあって、整合性が感じられない。
 ソウシリーズの視野は狭すぎる。狭いことで緊迫感が増す反面、ジグソウが与えた影響がわからなくなっている。ここも残念な傾向だった。

誰がジグソウを「見る」か?

 ソウシリーズは全7作、7年にわたって制作されたが、劇中では1ヶ月ちょいしか経過していない。続編が量産されたシリーズは数あれど、これほど登場人物と時間帯が緊密な作品はなかった。
 そこが魅力である反面、かなり複雑になってしまった。年1本ペースじゃ、間が空きすぎる。全7作を一気に見た方がいいが、精神に甚大なダメージを受けるだろう。私も、2度見たいとは思わない。

 全体を俯瞰する観察者がいてくれたらよかったのだ。ソウシリーズの場合、刑事やジャーナリストは次々に殺されてしまうため、7作目ラストでジグソウが複数同時存在したことや、殺人鬼ごとに信念が異なっていたことに気づく人は皆無になってしまった。ひょっとしたら、観客も気づいていないかもしれない。
 これではゲームが正しく理解されない。誰か1人、語り部として生き残ってほしかった。

 被験者が苦しむさまを最前列で「見る」ことに執着したジグソウであれば、自分の軌跡を「見る」観察者を用意してもおかしくない。それはジルやゴードン医師ではないはず。観察者がいれば、シリーズを通じた視点ができるし、ジグソウの行動にもスジがとおる。このあたりも画竜点睛を欠く思いだ。

陳腐化に抵抗しまくったシリーズ

 続編を作れば陳腐化し、「1作目に劣る」と酷評されることは避けられない。ソウシリーズは、その流れを作品に組み込んで、「1作目の劣化コピーである殺人鬼が断罪される」という展開はおもしろかった。

 しかし残虐シーンを増やしすぎたことで、ストーリーの変遷がわかりにくくなってしまった。ドラマより残虐シーンが受けると判断したのだろうか。とても惜しまれる。

 ソウシリーズは、続編を作ることによる陳腐化に徹底抗戦し、そして敗れた作品だった。敗れはしたが、かなり抵抗できたし、おもしろかったと思う。
 シリーズが終わってから、「あのとき、こうすればよかったのに」と言うのはらくちんだが、進行中のシリーズを制御するのは本当に難しいんだろうな。全7作を見て思ったのは、そんなことだった。

シリーズ全体のあらすじ

 「ジグソウ」と呼ばれる殺人鬼が世間を騒がせていた。ジグソウは被害者(被験者と呼ばれる)を拉致して、凶悪なトラップからの脱出(ゲームと呼ばれる)を強要する。このままでは確実に死ぬが、自分を傷つける覚悟があれば生き残れる、とジグソウは言う。

「Make your choice(選択は君次第だ)」

 多くの被験者は決断・実行できずに死亡するが、まれに試練を乗り越えた生還者は、生きていることを感謝し、まっとうな人生を歩むようになる。ジグソウにとってゲームは殺人ではなく更正だった。

 ジグソウの正体は、著名な建築家であるジョン・クレイマー。ジョンは資産も名誉もあったが、妻・ジルの流産とガンによる余命宣告によって絶望する。自殺を試みるが失敗。この体験から、「死と向き合うことで人は命の尊さを学ぶ」という信念をもち、殺人鬼・ジグソウとなった。

 余命わずかなジョンは後継者を求めていた。そしてゲームの生還者であるアマンダと、ジグソウ事件の担当者であったホフマン刑事を弟子とする。「ジグソウ」という名はメディアがつけたもので、ジョンが名乗ったわけではない。同じようなゲームを仕掛ける殺人鬼は「ジグソウ」として認識されたが、じつは大きな違いがあった。アマンダのゲームは脱出不可能で、ホフマンは無関係な人を大量に巻き込む傾向があった。不肖の弟子たちに憤慨したジョンは、彼らの粛正を決意。それは殺人鬼が殺人鬼に仕掛ける「ゲーム」だった。

 ジョンは射殺されるが、トラップは残り、後継者たちを追い詰めていった。アマンダは死に、ホフマンも窮地に立たされるが、強靱な意志力で生き延びる。ゲームの枠にこだわらない殺人鬼と化したホフマンだが、ジョンの「協力者」によって破滅に追いやられる。そして冷徹な宣言がこだました。

「Game over(ゲームオーバー)」