子どもと老人、どちらを大切にすべきか?
2012年 社会 死生観 社会子どもと老人、どちらを大切にすべきか?
儒教国家はもちろん、日本においても子どもより老人を大切にする風潮があったが、最近は逆転している。その理由について、小飼弾氏が考察している。おもしろかったので紹介したい。
BLOGOSの議論の流れに出てきた備忘録なので、いきなり読むとわかりにくいかもしれない。ざっくり要約するとこうなる。
テーマ
- 若者を犠牲にしてまで、老人を大切にする合理的な根拠はあるだろうか?
論旨
- 昔は、老人が蓄えた「知識」がとても重要だった。「知識」は共同体の存亡を左右する。
- 一方、子どもは簡単に死ぬし、再チャレンジも可能だ。
- 子どもより老人を優先した方が、共同体が生き残る確率が高くなる。
- 書籍や記録装置、パソコン、ネットワークの普及により、知識の外部化が進んだ。
- 医学の発展により子どもが死ぬ確率は減り、出生率も減った。
- 老人の価値は下がり、子どもの価値は上がった。
結論
- 子育てより高齢者福祉を優先させるだけの正当な理由はない。
老人を行かしておく理由が、どのくらい残っているか?
知識の外部化によって、老人の価値が失われたという指摘に、大きな衝撃を受けた。
もともと老人は、使いやすいデータベースじゃなかった。生産性はないし、体力も衰えてるし、肝心の頭脳もうつろな場合がある。おまけに「敬語」というプロトコルを通さないと、へそを曲げてしまう。
それがどうだろう? いま、姥捨て山の知恵が必要なら、Google検索すればいい。スマートフォンで1分もかからない。子どもが熱を出したら、病院に連れていこう。医学の専門家が対処してくれる。老人の経験情報が活かされるシーンなんて、まったくない。
世の中の移り変わりが早くなったことで、老人のノウハウが通じる場面はさらに減った。前人未踏の問題に取り組むなら、知力・体力・余命のある若者の方がいい。
ますます老人の出番はない。
損得じゃなく、モラルとしてお年寄りを大切にするべきだ!
という意見もあるが、これは子どもと老人、どちらを優先するかという問いかけだ。余裕があれ誰にも負担はかけないが、困窮したときに、子どもを殺して、その肉を老人が食べてよいとする根拠は見あたらない。そもそも困窮した状況を作ったのは大人・老人であり、子ども・若者に罪はないのだ。
私たちはどう老いるべきか
私もあと20年もすれば高齢者だ。そのとき、
「わしはいいから、きみたちが食べなさい」
と言えるだろうか? あるいは、
「ぼくたちは我慢します。あなたに生きてほしいんです」
と言われるほど価値ある老人になれるだろうか?
それより子どもを洗脳教育して、大人たちに絶対逆らえないよう調教すべきかもしれない。