自殺と尊厳死

2007年 哲学 医療 死生観 社会 考え事
自殺と尊厳死

自殺は「社会による殺人」と言われている。

人は自分の意志で自殺するのではなく、「生産性のないものは生きていてはならない」という社会風潮に殺されている、という解釈だ。
ちょっと考えてみよう。

──将来、あなたが重い病気にかかったとする。
そのとき尊厳死が社会的に認められていたら、どうなるだろう?

あなたと同じ病状の人はみんな尊厳死を選んだ(家族の負担を取り除いた)のに、あなたはまだ生きていている(家族に負担を強いている)。医者も、家族も、友人も、あなたがいつ尊厳死を選ぶか……尊厳死を選ぶ勇気があるか……を見守っている(期待している)。

尊厳死に反対している人たちは、それが殺人や自殺幇助を助長するからと主張している。その見解には、一理あるだろう。

そもそも人間は、自殺したがる動物だ。
その証拠に、自殺はブームになりやすい。人間はつねに自殺願望をもっているが、ふだんは理性や社会風潮によって封じられている。有名人(自分が共感して、社会的に認められた人)が自殺すると、その抑制が外れて後追い自殺が続出してしまう。
なので自殺者は、なにかの囁きに誘惑されたとも解釈できる。

「あなたと同じ病状の人はみんな尊厳死を選びましたよ」
「小説家の○×氏も、最後はやはり尊厳死でした」
「今はまだ意識がありますが、もうすぐ混濁します」

それでもなお「生きる」を選択したとしよう!
(私は医者でも神様でもないのだから、残り寿命を気にするのはおかしい。与えられた生を最後まで全うしよう。たとえそれが長く、厳しい苦労を私や家族にもたらすとしても、それが私の務めなのだ。○×先生の本にも書いてあった。苦しんで死ぬことが、あとに残されたものへの贈り物になると……)

──やはり影響されている。
社会に脅迫されて、強制的に生かされているように見える。

生きるにせよ、死ぬにせよ、自分の意志で決めるのは難しい。
というか、不可能。

私たちは生きているのではなく、社会によって生かされているのだ。
そして社会が必要としなくなったときに、殺されるのだ。