自殺を自死と言い換えて、苦しみを取り除けるのか
2013年 哲学 人権 孤独 死生観 社会
島根県は遺族の強い要望を受けて、「自殺」を「自死」に言い換えることにしたそうだ。
私はこうした言い換えが大嫌いだ。なにがイヤかって、「イヤだ」と言うと、「あなたは遺族の気持ちをわかっていない」とか「かわいそうと思わないのか?」と批判されることがイヤだ。
自殺を自死に言い換えることで、遺族の悲しみや苦しみが取り除かれるとは思えない。一部の遺族はそれで報われるかもしれないが、例外的な話だ。また、「自殺」という言葉のネガティブなイメージが減ることで、自殺者へのプレッシャーが減ることも怖い。
わからない苦しみ
父が死んだとき、弔問に訪れた年配男性からこんな話を聞いた。
男性の娘さんは二十すぎに自殺してしまったそうだ。なぜ自殺したのかわからない。聞けなかったけど、遺書や友人の証言があっても、父親としては理解できないだろう。どうして気づかなかったのか、どうすれば止められたのか、そればかり何十年も考えているそうだ。
そんな彼に、
「娘さんは自殺ではなく、自死されたんですよ」
といって、なにが解決するだろう?
なにかが解決すると思うことは、とても傲慢ではないか?
『ツァラトゥストラはかく語りき』に、こんなシーンがある
山から下りてきた超人ツァラトゥストラに、せむし男が言った。
「私たちを完全に心服させたかったら、盲人の目を治したり、足萎えを歩かせるなど、奇跡を起こさなければならない。いまが絶好の機会だ。私の背を治してみせろ」
しかしツァラトゥストラは言います。
「もし傴僂(せむし)からその背のこぶを取り除くならば、それは彼の精神を取り除くことである」
いろんな解釈があるくだりだ──。
障害者の人格は、障害があることに大きく影響される。障害があることで優しくなれたり、粗暴になったりするだろう。いいところも悪いところもひっくるめて、ひとつの人格だ。
親がいない子どもは、人一倍、強い人になるかもしれない。
お酒が飲めない若者は、人一倍、気遣いが上手な人になるかもしれない。
それを上から目線で、「かわいそうだね」と同情して、障害を取り除いてやることが善行と言えるだろうか? 善行と思うのは個人の自由だが、同意しない人を攻撃するのは傲慢すぎる。
わからないことを、わからないまま受け入れる
先の男性は、父の後輩にあたる。かなり親しい間柄だったらしく、父は友人・知人が多かったけど、その中でも特別な存在だろうと自負していたらしい。
しかし父は、いまわの際で、彼に声をかけなかった。多くの友人・知人たちと同列に扱われたことが、彼には不本意だったらしい。
わかっているつもりで、わかっていなかった。
それは、娘の自殺と同じ構図だった。
娘が自殺した理由はわからないし、これからもわからないだろうけど、わからないことを、わからないまま受け入れられるようになったと、その男性は言った。まぁ、そんな感じのことを言った。
娘さんの自殺が、その男性の人格に大きな影響を与えたことはまちがいない。娘さんの自殺でいいこともあった、なんて言えないけど、悪いことしかなかった、とも思えない。
当事者がいない問題
私は自殺者の遺族じゃないから、遺族の気持ちはわからない。
しかし遺族も、自殺した当人の気持ちはわからない。
あるいは、わからないからこそ、言葉の響きが気になるのかもしれない。しかしそれを他者や公的機関に要求するのは行きすぎだ。自殺した当人のためにできること、同じ悲劇を繰り返さないために訴えるべきことは、ほかにあると思う。