ココにいるよ
2004年 哲学 mixi 孤独ぽちぽちと、携帯電話でメールを打つ人をよく見かける。
電車の中、バスの中、レストランの待ち時間など、ちょっとでも時間があればメールを打ちはじめる。最近のガクセイは1日十数通ものメールを送受信するのだと、なにかのニュースに読んだ。
それほど頻繁なメール交換で、なにを伝えようとしているのか?
話を聞いてみると、その多くは意味のない交信のように思える。
「今、○×にいるよ」
「いつか△□したいね」
「◇☆を発見!」
そんなこと、いちいち伝えなくてもよいではないか?
もし、そんなメールが大量に届いたら、私はきっと無視してしまう。1日1回、1週間に1回、1ヶ月に1回、まとめて返信するようになるだろう。
だって、どうでもいい内容だから。
ところが、そういう人にはメールは送られないらしい。
細かく、きちんと返信してくれる人にだけ、メールは送られる。
すると、互いが同じタイプだから、ハウリングのようにメールの数が増えていく。メールが増えると、1つずつの本文は短く、内容は軽いものになっていく。そうでないと、書くのも返信するのも面倒になるから...。
──これって、ヘンじゃないか?
まるで、頻繁に送受信することが目的であって、内容の伝達は二の次じゃないか。
「私はここにいるよ」
「あなたがいることを感じているよ」
結局のところ、やりとりしている情報はこれだけだ。
すべての装飾をはぎ取れば、それは明滅する生存ビーコンにすぎない。あるビーコンが小さく点灯すると、類似するビーコンも同じように点灯して、互いの存在を確認しあう。
こう書くと、なんと弱々しい灯火だろうか。
人との「つながり」は大切だ。
しかしそれは、「孤独」を恐れて逃げ込む場所じゃない。
「つながり」が感じられなくなると、自分も消え入りそうな不安を覚えるとしたら、それはもう立派な依存症である。「つながり」に囚われている。
...という話を、メール好きな女の子に話したら、めっちゃ怒られた。
曰く、まるでわかっていないらしい。
いろんな意味で。
(……そうかもしれない……)
私の理解は、実体験に根ざしていない。
私は友達も少なく、コミュニケーションというものが苦手だ。
なにもかも、自分の中で考え、答えを出そうとするクセがある。
ならば、私も明滅するビーコンとなろう。
携帯電話でメールを打つのは難しいので、ここで日記を書いてみよう。
誰かが反応したら、それを大切にしてみよう。
そうしたら、なにかがわかるかもしれないから。