自由な死に方

2012年 生活 死生観 男と女
自由な死に方

「やっぱりお父さんは、海外に行きたかったのかしら?」

実家に帰ったとき、おふくろと親父のことを話した。親父が亡くなって5年になるが、「ああすればよかった」「あれはよくなかった」と考えてしまうことは、どうにも避けられない。私はビールを飲みながら、おふくろの話を聞いた。

ここで、親父について話しておこう。
私の親父は山男で、日本だけでなく海外の山もあちこち制覇していた。1973年。28歳になった親父は、「体力のある今しかない」と、アンデス縦断登山隊の先発隊に参加してしまった。会社も辞めて、親族を説得し、ありったけの貯金を残して、ロシアの船で渡航した。私は1歳と4ヶ月。弟が生まれる3ヶ月前だった。
観光ではない。当時の南米は治安が悪かったし、登山で怪我をする恐れもある。実際、親父たちは事故と犯罪に巻き込まれ、214日後に帰国することになる。そんな旅に出かける親父もすごいが、身ごもったまま送り出したおふくろもすごいと思った。

その後、親父はきちんと就職し、きちんと生活を立てなおした。それが親父の自信になったのはわかるが、まだ若かった。親父は会社の後輩に、こう自慢した。
「おれの嫁は、おれの言うことはなんでもきくんだ」
それを聞いたおふくろは怒った。じつは、親父が不在中の暮らしは大変だったらしい。おふくろは北海道の実家にもどったのだが、そこには再婚した義理の母がいて……まぁ、細かいことは省くが、決して簡単なことじゃなかったと、おふくろは言った。

私は、両親が喧嘩しているところを見たことがない。しかし喧嘩してないわけじゃなく、子どもの見えないところで衝突していたそうだ。はじめ、親父は「はいはい」と聞き流していたが、やがて怒りの深刻さを知って、あやまったそうだ。親父がそんな風にあやまるとは、ちょっと意外だった。

月日は流れ、親父は肝臓がんを患った。もう長くないと知ったとき、親父は日本全国をまわる旅に出た。2~4ヶ月にわたる長期旅行を何回も繰り返し、行きたかったところ、また行ってみたいところを訪れ、親しかった人たちに挨拶したようだ。
しかし海外には行かなかった。私は病院のベッドで親父に問うた。
「海外に行きたいところはないの?」
「ない」
「ないわけないだろ」
「ない」
そして親父は逝った。

おふくろは思い返す。親父は仕事で海外を飛びまわっていたから、海外に友人・知人は多い。行きたかったところは絶対にあったはず。なのに行かなかったのは、自分に遠慮したからではないか。
存命中は、旅行より治療に専念してほしいと思っていたけど、いま思えば、もっと自由にしてあげるべきだった。最後の最後で遠慮していたとしたら、申し訳ない。

話を聞いて、私は言った。
「息子として、親父の心中を代弁させてもらうなら、そこは気にしなくていいっしょ。際限なく自由であるより、自分が決めた不自由さを受け入れる方が、よっぽど満足できると思うよ」

「そんなものかしら」とおふくろが言って、この話は終わった。
夜も更けたので、私は就寝した。布団のなかで、もっといい言い回しがあったのではないかと、あれこれ考えた。考えても仕方ないが、考えてしまうことはどうにも避けられない。