五輪、ミテナイ

2008年 社会 スポーツ 政治
五輪、ミテナイ

ときおり自分は、人として感情に欠けるのではないかと思うことがある。

たとえば、私は北京オリンピックを見ていない。開会式の最中はずっとゲームをしていたし、その後の中継はもちろん、結果レポートも見ていない。チャンネルを切り替えたときや、mixiのニュースなどで、ちらちら見る程度。オリンピックが嫌いなわけではなく、興味がないのだ。どこの誰がメダルを取ろうと、私には関係ない。

興味がないからと言って、オリンピックに熱狂している人たちを軽んずる気持ちはない。むしろ、大多数の人と共感できない自分に、一抹の不安を覚えている。数年前のサッカーもそうだった。日本中が騒いでいるのに、ぜんぜん同調できない。
べつに困らないが、これでいいのかと思ってしまう。

──どうしてオリンピックに熱狂できるのだろう?
私も日本人だから、日本人がメダルを穫るのはうれしい。しかし飛び上がって喜んだり、地団駄を踏むほど興奮しない。「メダルに関係なく、選手を応援したい」という人もいるが、競技のルールや選手の事情をどれほど理解しているのか。言葉にすれば、どの理由もウソっぽい。

要するに、「熱狂」そのものが目的なのだろう。オリンピックに熱狂すれば、日本全体との一体感を味わえる。みんなで喜び、みんなで悔しがり、みんなで興奮できる。オリンピックほど大規模に熱狂できるイベントもない。

裏を返せば、大規模に熱狂できるイベントであれば、内容は問われない。サッカーでも野球でも、アイドルでも、政治問題でもいい。ときどき人は、なにかに熱狂したくなる。乱暴な言い方をすれば、戦争中の熱狂も根っこは同じだ。そして戦争に熱狂するくらいなら、スポーツの方がいい。そーゆーことなんだと思う。

スポーツに興味はないが、みんなとの一体感は味わいたい。
しかし自分を捨てることができないので、輪に入っていけない。

これでいいような気もするし、よくないような気もする。